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研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。

この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

今回は 眼科諸流派の秘伝書 (26)

35.『留春園眼療原秘録』です。

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眼科諸流派の秘伝書(26)


35.留春園眼療原秘録

 わが国の眼科諸流派は年代によって消長がみられ、寛文初年の頃には馬島流、穂積流、佐々木流、青木流、須磨流および山口流等が限科の流派として一家をなしたといわれ(黒川道祐著 『本朝医考』)、その後、馬島流、家里流、笠原流、井花流等の流派が名をなし(小川剣三郎著 『稿木日本眼科小史』)、さらに文化、文政より天保年間には尾州の馬島流、信州の竹内流、江戸の土生流、あるいは筑前の田原流等が眼科諸流派興亡の中、一家をなしていたといわれている(福島義一著『日本眼科史』)。

 前述のように文化、文政より天保年間の頃、馬島、竹内、土生、田原流等がそれぞれ盛業にあり、当時わが国四大眼科として知られていた。

 いわゆる竹内流眼科というのは信州諏訪の竹内家初代、竹内新太(諱、持好、後新八と改む)に伝えられた流儀であるが、先達の文献によると、その初代、竹内新八の高祖父以前の家系については明らかでないが、高祖父竹内新右衛門という人が三河国設楽郡川角村(愛知県北設楽郡東栄町字川角?)に住み、菅沼大膳の幕下にいた。曽祖父は竹内五郎太夫といい、慶長19年、元和元年頃徳川家康に従って摂津国(大阪。兵庫)に出陣したという。そして祖父竹内是斎に至って眼医を業とし、父甫久がその業を紹いだ。この甫久(1653〜1729)の代に信濃国松島(伊那郡)に移住し、享保7年(1722)6月、諏訪藩主四代洞虎院忠虎公の聘に応じて諏訪に移住した。甫久の子、竹内新八(持好、全提院)も諏訪藩に聘せられた。竹内流眼科の名声はいよいよ高くなり、以後代々新八を襲名して明治におよんだといわれる。また、竹内家眼科のそもそもの興りについては、慶長年間(1596〜1614)伊東丹後守は大阪城落城の時、川角村(愛知県北設楽郡東栄町)の竹内新右衛門を頼って身をよせ、その近くに居を定めた。家来中島惣兵衛は身を六部にやつして薬師仏を背負い、主人丹後守を故郷へ訪ねる途中、一人の僧が惣兵衛の忠節に感じ、眼科治術一巻を授けた。惣兵衛は川角村に眼科を業として主人を養い、終に業を丹後守の子、玄撮に伝えた。丹後守は竹内姓を名乗り、名を尉と称した。これが竹内家初代である。二代玄撮は堂を建てて、惣兵衛が背負ってきた薬師仏をまつり瑠璃殿と称した。以後、代々眼科を業とし、十三代
の玄洞に至って豊橋に移り内科を開業、 さらに現十四代幹彦氏は一宮市において外科を開業しておられ、薬師仏は現在も安置されているといわれる(『愛知県医事風土記』)。つまり信州諏訪竹内流眼科は竹内甫久の代に故あって三河から信濃松島に移り、その子竹内新八(持好)に至って諏訪(上諏訪、高島)に移り住み、諏訪竹内流眼科が興隆したものと解される。

 さて、この『留春園眼療原秘録』(竹内主人著録、浜松、内田正精写)は諏訪竹内流眼科を伝えたものと思われるが、その著者は竹内主人と記されているのみで、何代目の後継者の著録であるか明らかでない。しかし、その医法は竹内流創始が前述のごとく、 一人の僧(龍臺順伯和尚?)から眼科治術一巻を授けられたとあり、また、『家流眼療秘術再伝書』の中に

 「竹内猷日、雀目症余家別有一秘方、不同大人小児是真百発百中之苛剤矣(中略)則東垣蘭室秘蔵、 経験方、 眼目論、 古今医統、 医学網目、銀海精微之昼可参考」

とある処より、明らかに中国(明代)伝来の眼科を採り入れていることが窺われる。このように本書の内容は中国(明代)の眼科を基本としながらも、古来の妄説はこれを廃し、自らの経験を生かし、新たな治療法を工夫して加えていったようである。本書の内容をその主な項目によってみれば以下の通りである。

眼目診法九十九条
家園日用方概略

外障門: 第1 跌撲傷損竹木刺傷  
  第2 頭面瘡浸ヨウ(=揺のてへんをさんずいに変える)眼キョウ(=目+匡)赤爛  
第3 爛弦風  
第4 拳毛倒睫  
第5 努肉攀晴  
第6 初生児赤爛閉合  
第7 天行赤眼
第8風眼初起


 

内外障門:  第1 白トウ(=稲ののぎへんをこざとへんに変える)  
  第2 胎風  
  第3 痘眼  
  第4 風眼軽症  
  第5 疳眼  
  第6 痞積爵  
  第7痘後餘毒  
  第8 婦人血風血量  
  第9 上焦オ(=やまいだれに於)毒  

 

内障門:  第1 羞明  
  第2 昏花属水気  
  第3 腹中有動気夢○(=穴+味)不安者  
  第4属産後或血崩後者  
  第5頭暈昏花  
  第6 青盲  
  第7 膿翳眼  
  第8 脚気奔豚  

 

  家制通用点洗方 眼目随身方 家定方 膏方  
     
  家流眼療秘術再伝書  
     
外廓之部:  両眼粘晴、胞肉膠凝、胞肉生瘡、瞼生倫針、風攣出瞼、風攣○(=渦のさんずいを口に変える)斜、瞼胞痔、硬瞼硬晴、飛塵入眼、拳毛倒睫、胎風赤爛、風弦赤爛、瞼停膠血、胞腫女桃  
     
  上痺之部 土肉之部 膜之部 中痺之部 翳之部 内痺内傷之方 針術之秘法 方録(洗薬、
蒸薬、塗薬、点薬、雑方、薬効)
 
     

 

近定方要治一伝


 この写本は44葉全1冊(195×12.5cm)よりなり、前半の眼目診法より膏方までは漢文、後半の家流眼療秘術伝書は片仮名交りの和文で前述の項目の順に記されている。これを『柚木流眼療秘伝書』(崎陽後藤孝玄先生并諸家禁方、文化11年8月南紀華岡塾、伊庭謙識)に比較すると、 この写本の「家流眼療秘術再伝書」「外廓之部」以下「方録」の最後の部分までは上記の『柚木流眼療秘伝書』の内容とよく似ていて「針術之秘伝」の最初の部分がこの写本では「吾流ハ」となっているのに対し、『柚木流眼療秘伝書』は「柚木流ニテハ」と書き出されていて他は同文である。これはこの写本の作成者が『柚木流眼療秘伝書』の内容をもって『家流眼療秘術再伝書』としたものか、あるいは『家流眼療秘術再伝書』の内容をもって『柚木流眼療秘伝書』としたものか判然としない。小川剣三郎博士はその著『稿本日本眼科小史』「柚木太淳――人眼の解剖――」叙述の中で、その引用書目に『家伝眼療秘伝再伝書』(写)を挙げているが、その著者は明らかでない。また、中村善紀、青木冨士弥両氏の『眼病療治諏方(訪)行日記―一竹内新八の眼病療治――』(日本医事新報No.3099)には松代藩の小林内蔵太が諏訪藩の藩医、竹内新八(初代持崇全提院より6代目持光竹林院)に眼の治療を受けた時の様子が詳細に述べられているが、その中で、竹内流の医法は中国伝来の漢方に自家代々の経験を加えたもので、その秘伝書に『留春園眼療原秘録』(竹内主人録著)、『家流眼療秘再伝書』(竹内猷)などがある、 と述べられている。

 竹内流眼科の秘伝書として、この他『眼目大全』(竹内流眼目療治、享保2年筆)が伝えられている(筆者未見)が、竹内流の家伝薬に雲切目薬(香梅膏)が用いら れ、家伝の白内障手術には大変優れていたことが伝えられている。また、諸国からはるばる眼の治療を受けに竹内眼科を訪れる患者に対しては竹内邸の門長屋を宿泊所用に開放し、米や味噌などを無料で与え、患者達の受診の便を計って、患者に信頼される施療をしていたということは有名な話である。

 

 

(1984年2月 中泉、中泉、齋藤)

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