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研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。

この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

今回は 眼科諸流派の秘伝書 (31)

40.『獺祭録』です。

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眼科諸流派の秘伝書(31)

40瀬祭録
 わが国における西洋流実験的眼科医の始祖といわれる土生玄碩の事蹟については多くの諸先輩の詳しい研究によりよく知られている。

 そもそも土生家の祖先は足利義教の臣下であって、渡辺氏といわれた。足利義教が殺された(嘉吉の変)時に、渡辺義実という人が朝鮮に逃れたが、そこで眼病を煩い季圭仁という眼科医の治療を受けて癒った。それから眼科の医術を学ぶこと7年あまり、再び日本へ戻り、安芸国豊田郡土生村(広島県)に住みつき、姓を土生と改め(異説もある)、土生流眼科を起した。その後、代も変り元亀天正(1570〜1591)の頃、玄碩より数えて8代前の義賢という人が安芸国高田郡吉田村に移り、眼科医として毛利家に仕えたといわれる。

 『師談録_|(上生玄碩述、水野善慶筆録)にも「余が家一眼科書ヲ伝フ其書甚ダ古シ、未ニー竿斎伝授卜日フ、一竿斎ハ終二何人タルヲ知ラズ」とあるように、土生流眼科は足利時代の昔から秘伝書により代々その眼科が受け継がれて玄碩に及んだものと思われるが、玄碩以前の眼科についてはその資料も乏しく明らかではない。

 土生玄碩(幼名:久馬、通称:義寿、玄道、玄碩、字:九如、号:桑翁、家号:迎翠堂、1768〜1854)の眼科に関する学説や手術の法については『獺祭録』や『銀海波抄』(門人時岡玄岱により『獺祭録』を補足したもの)あるいは『師談録』等によって窺い知ることができる。

 『類祭録』は玄碩の門人への講述筆記であるといわれ、土生流眼科を伝える眼科書の一つとしていろいろの写本がみられる。筆者の所蔵する数種の写本をもとにひもといてみよう。

 『瀬祭録』とは大変興味深き書名であるが字典によると獺祭(ダッサイ)の項に獺(カワウソ)が魚を以て祭ること、転じて詩文を作るとき多くの書籍をひろげちらすこととある。こうした解釈から推察して、本書は多くの医書などを参考にして門人へ講述された眼科講述
録の意と解することができようか。

 本書には病名、薬方主治および手術療方等が記述されているが、その内容の一部を示すとおよそ以下のようなものである。

病名: ○(=日に之)発肝翡、天行赤眼、風赤膜、角膜曇暗、癩疾眼、三光分(○(=鷄の鳥を隹に変えた字)冠肉)、角膜翳、垂簾翳、 風眼、 涙管漏、膿眼、撃肉攀晴、○(=鷄の鳥を隹に変えた字)冠蜆肉、水管○(=やまいだれに嬰)、涙出眼、胎毒赤眼、拳毛倒睫、湿熟上衝、 ○(=日に之)毒腫、爛瞼風、痘疹眼、雀目眼、膵胃疳眼、牛眼、黄胖眼、乾燥眼、角膜潰瘍、烏眼突出、烏眼斜倒、干缺内障、血灌内障、一物二形内障、青盲内障、烏風内障、雷頭風内障、轆轤転関、打撲折傷眼、婦人凝血眼。

薬方主治: 救苦剤、救苦剤加甘草、救苦剤加芒硝、通剤、通剤加芒硝、荊九剤、揆雲剤、清肝剤、○(=左側に「縊」の糸へんをとったものを書き、右側に「蜀」の「虫」を「、」にしたつくりを書く字)毒飲、逍遥剤、消疳剤、緩和剤、解毒剤、槐木煎、角屑剤、角屑加五味子湯、当○(=販の「貝」を「白」に変えた字)大黄湯、四茵剤、強胃散、応鐘散、清血丸、硫黄丸、罌粟煉、奇功錠、還晴丹、四順丹、硝石精、桂精水、眼蒸湯、燭竜膏、金公水、澄水、朱雀水、研翡散、樟脳酒、発泡膏、水銀膏、化膿膏、白明膏、萬応膏、玲羊角散、白霊砂糖。

手術九法: ○(=兼にりっとうをつけた字)洗法(麦粒腫の切開)、破針法(膿瘍切開)、鉤針法(翼状賛片剪除)、鋏胞法(睫毛乱生の時上瞼の挟定)、焼針法(焼灼)、捻出法(涙嚢膿漏の時涙嚢部の圧定)、小鋒鍼法(角膜穿孔術)、緊鋏法(角膜異物の鑷ジョウ出)、刺絡法(血をとる法)。

 この外に秘伝の手術法として開瞳法(仮瞳孔術)と直針法、横針法による白内障手術があった。

 『獺祭録』を時岡玄岱が補足した『銀海波抄』は烏眼斜倒を筧翡内障とし、干缺内障を斜瞳内障、干快内障、縮小内障の三障とし、斜視眼を記してその初発に複視のあることをいい(麻痺性斜視)、白内障をその形状によって白内障、沈翳内障、氷翡内障に区別し、斜瞳、筧翳、干缺、縮小等の内障(虹彩炎)の梅毒に因ることが多いといい、雀目、牌胃疳眼の外に鶏盲内障の先天性のものがあること(色素性網膜炎)を論じ補足している。(小川剣三郎)

 さらに上生玄昌(玄碩嗣子、号、脩斎)選の『銀海療法』に『獺祭録』を比べると病名はその大半が『瀬祭録』に挙げられているものと同様で、簾翳、胞瞼風粟、逆順翳、角膜膿瘍、 虹彩脱出、 晩盲眼、 瞬動眼、 胎毒眼、糊瘤、白膜血班、角膜星翡、角膜腐蝕白内翳、黒内障、視力乏弱眼、○(=にんべんに「鏤」のつくりを書く字)麻質斯○(=火へんに欣)衝眼等の病名が新たに『銀海療法』に加えられている。

 『獺祭録』に掲げられた手術9法は土生流眼科の神髄をなすものといわれ、またその秘伝とされる開瞳術や直針法と横針法による白内障手術は土生玄碩の最も得意とする手術式であったと伝えられる。直針法は玄碩が郷里吉田(広島)にいた頃発明した方法であり、横針法は玄碩が大阪開業時代に三井流眼科三井元橋(善之。棗洲)より習得した術式といわれ、また開瞳術は天明7年(1787)玄碩が一人のソコヒ患者(田村喜平次)に横針法による手術を行った折、その意外な結果(白翳は墜ちずそのままで虹彩の結膜に近いところに小さい孔があいたために復明)により発明された方法と伝えられる。この開瞳術案出のきっかけになった暗中模索の中に行われたというソコヒの手術以来、玄碩の手術室に"迎翠"と書いた遍額が掛けられたといわれ、その家号の"迎翠堂"もこのことに由来するのであろう。

 玄碩の眼科は初め自家に伝えられた家方や当時世間に行われた方法をもとに『銀海精微』、『審視瑶函』、『眼科全書』等を参考に説を立て、術を施したものであったが、後に蘭方を大いに採入れ、いわゆる漢蘭折衷眼科に移行して行った。『獺祭録』は臨床上最も多く遭遇する眼病や、 日常最もよく用いられる薬方や手術療法などを集録して著わされたものであるが、「其説約而簡、未足潭明其術」(『稿本日本眼科小史』)と評されるようにその漢方眼科から漢蘭折哀眼科への移行を示しているように思われる。


参考文献

小川剣三郎: 上生玄碩先生第百五十年記念会贈位祝典記事.同記念会、東京、1916.
土生玄碩先生の事蹟.中眼、7:201、眼臨、10:113、1915.
土生玄碩在獄中の取扱。実眼、1:479、1918.
土生玄碩への申渡書.実眼、10:434、1927.
土生玄碩死去の風説.
稿本日本眼科小史 167 吐鳳堂、東京、1901.
土生玄昌(脩斎)の白内障手術記事.実眼、 11:77、 1928
河本重次郎: 土生玄碩先生百五十年祭.日眼、19:1102、 1915.
上生玄碩に就て 中眼、18:1183、1926
土生玄碩の後.中眼、19:351、1927.
土生玄碩、 シーボルト.日眼、35:83、 1931
再び土生玄碩の事に就て(莨?の眼孔散大試験は1826年4月25日也)。日眼、32:附83、1928.
:土生家の蔵書の中より 中限 19:674、1927 中眼、20:118、1928.
眼科の輸入及び其発達 1134、中外医事新報、1928
土生氏蔵書. 日眼、33: 附25、1929
富士川 游: 土生玄碩先生. No.332、46、中外医事新報、東京、1894.
日本医学史. 557、日新書院、東京、1943.
土生 敦: 土生玄碩先生の話. 実眼、19:107、1936.中眼、28:329、1936.中眼、29:429、1937.眼臨、31:328、1936
石原 忍: 土生家蔵書寄附 実眼、15:608、1932.
土生氏門人: 師談録 杏林叢書、 第3 輯、 吐鳳堂、東京、1924
森 銑三: おらんだ正月.204、冨山房、東京、1939.
福島義一: 日本眼科全書1.日本眼科史.108、金原出版、東京、1954.
日本散瞳薬伝来史6.シーボルト事件と土生玄碩 銀海、No.79、31、大阪、1979.
柄澤三郎: 土生玄碩の生涯 東華書房、東京、1943
宇山安夫: わが銀海のパイオニア 278、千寿製薬、大阪、1973.
中泉行正: 明治前日本医学史4.日本眼科史 301、日本学術振興会、東京、1964.
酒井シヅ: 日本の医療史.354.東京書籍、 東京、1982.
呉 秀三: シーボルト先生其生涯及び功業.791、吐鳳堂、東京、1926.
冨士川游: 小川剣三校注:日本医学史綱要2. 120、平凡社、東京、1974.




 

 

 

(1984年7月 中泉、中泉、齋藤)

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