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研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。

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今回は 眼科諸流派の秘伝書 (22)

31.『田代三喜法印目伝之書』(仮称)です。

 

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  31.田代三喜法印目伝之書(仮称)

室町時代の末、田代三喜*によってもたらされた、いわゆる李・朱医学(李東垣、朱丹渓の医学)が、そのよき後継者曲直瀬道三(一渓)によってわが国の各地に広められたことについてはよく知られているが、田代三喜の眼療秘法が秘伝書に残されていることについては案外気付かれていない。ここに仮りの書名で挙げた『目伝之書』はその秘法を伝えたものであると認められる。

 この秘伝書は他の流派の秘伝書のようにはっきりした書名が付けられたものではないが、本書の末尾に「右ノ法 田代三喜ホウインヨリ 小笠原信相伝之書也」と記されていることより、もともと三喜法印の秘法と考えられる故、仮に書名を『田代三喜法印目伝之書』とした。

 そもそも本書に述べられた秘法というのは、本書の末尾の識によれば、この法は田代三喜法印の秘法を小笠原大膳大夫**貞信という人が念を入れて一字も残らず写し置かれた目伝の書であって、千金にも替えがたいもの故、親、兄弟といえども心ざしの薄い人には決して伝えてはならないとしてあり、長い間他言他見一切無用として大切に秘蔵されていたものと思われる。つまりこの写本は寛永9年(1632)に書写相伝されたものと思われるが、識語の結びに「御ナグサミニ御ラン被下度候、敬白」と記されていることから某氏が小笠原大膳大夫貞信の書き置いたものを更にある人に書き送ったものと推察される。

 この秘伝書はおよそ52葉、全1冊(22.5×16 5cm)よりなり、片仮名を用いて平易に記述され、朱入りの写本である。記述の内容はその主な項目を挙げると、木火土金水(分別養生の事)、目伝、眼病療治(眼病図入)、薬能、目洗様之事、内薬之事、薬種持様之事、目之禁好物等である。

 三喜法印の病因説はこの写本の冒頭に、「木火土金水、是ハ四節之分別也、春夏秋冬之立分ハ五ツトスル、 コレヲ以テ木火土金水卜書分ケ候間分別養生肝要也、春夏ハ頭之煩ヲ養生シ、秋冬ハ下焦ノ煩ヲ養生スベキ也、何レモ陰陽次第二内薬ヲアタヘ候、イズレノ眼病モ皆治スベシ、分別加減肝要タルベキ也」とあるように、「太極ヲ以テ主トスル、木ハ春ヲ主ドリ、火ハ夏ヲ主ドリ、金ハ秋ヲ主ドリ、水ハ冬ヲ主ドリ、土は則チ四時二寄旺ス、四時ヲ以テ行ハルルナリ」と説かれる宋代儒教の性理説に基づいて立論された李・朱医方から論述されたもので、古代中国自然哲学思想の五行説、すなわち木火土金水の五原素をもって万物の根元となす考えであるといわれる。

 また、"目伝"の条下に「ヤミ目、血メ、 ウハヒ、 イトマケ、キョソン、タダレ目、ホシ目、ツキ目、月ノワ、ソコヒ、 ウハヒ、 ウチメ、イモ目、 シナジナ多シトイヘドモ、此十三イロヲ根本トシテ、エダハノサクガ如シ、此十三イロヲ見分クルコト目医者ノ大事ナリ、兎角眼病ハ心、腎ノ臓ヨリイツル病ナリ。サレドモ、 インヤウハ、ミツケヤウアルベシ、トカクインヤウノフマヘヤウ肝要タルベシ、イカニヲヲイナリトモ、ケイコ、タンレンウスキカタハ、見分ヤウナルベカラズ、療治効クベカラズ、タダ、ケイコ、タンレンニキワマルベシ。病人ノ心、言葉ヲキイテ病人ノ気ニサワラヌヤウニ、痛ミナキヤウニユルユルト心ノナル如クニ目ヲ上手ニコシラヘルコト肝要ナリ。サレドモ痛ミアル療治モアルベシ、 ソノ分別ヲシワケルヲ、ケイコ、タンレント云ウナリ。大概ノ病ナラバ、切り刀、アツ金ハソコツニアルベカラズ。先ズ指薬、 塗り薬、 洗薬、蒸薬、 ヌル金、 内薬コレラヲモツテ療治スベシ。ソコヒナドハ、ハリヲ刺シテノクルコトモアルベシ、サレドモソコツニ針ヲ刺シ、切り刀ヲ当テテノクルコトモアルベシ、カヘスガヘスモミヤクヲサキタテ、内薬ヲ肝要ニ与ヘルベシ、フンベツフンベツ」
と、眼病の治療に当って、その眼病が何れの種類の疾患かをよく見分け、見極めることが何よりも大事で、その分別すなわち診断の稽古、鍛練が最も肝要であることを挙げ、治療は病人の心、言葉をよく聞いて病人の気にさわらぬ様に、しかも上手に治療することが肝要であると、医師の心構えといったことを述べている。

 また『眼病の治療法』の条ではマケ目、 ヤミ目、 ホシ目、ツキ目、ウハヒ、 月ノ輸、 ソコヒ、イトイケ、 イモ目、ウチ目、キョガン、血目、月ノ輪ノウハヒ等の眼病が挙げられ、 各々彩色の眼病図を描き込み、それぞれの治療法を述べている。また、これら治療に
用いられた薬には、金丹香、雲明香(雲清香)五苓膏、石膏散(マケ目の薬)、龍丹香(萬目薬)、星切散(星目薬)、虎肉散(突目薬)、 三石散(ウハヒの薬)、明星散(ソコヒの薬 )滑石散(イトマケの薬)、黒石散(一切の目によい薬)、明天散( イモノヲヤメヘイルトキノ薬)、四錦丹、四金香、紫金香(ウチ目の薬)、辰砂散(ヤミ目の薬)、金水香等が挙げられているが、これらの中、金丹香、雲清香、黒石香、雲明香、黒石散、水薬及び洗薬等は特に貴重な薬として取扱われたごとく、「コレラハ目医者ノ秘伝ニハオヨソ日本国中ニアルマジク、唐ニテシンノウノ子孫ヨリ三喜伝ヘテ今、日本ヘ広メタマウ妙薬ドモナリ、 ソノ中デモコノ薬ハ大事中ノ大事ナリと、その秘中の妙薬として取扱われていたことがうかがわれる。

 また、「目洗いやう」の条には次の様な事柄が記されている。
「薬指ササヌマイ(前)二、モグサヲ黒焼ニシ布ニ包ミ、コレヲアツ湯ニフリタテ、 ソノ汁ヲサマシテ ヨキカゲンニシテ、 タダレ、ハレタル目、 ダイジニ洗ウ二吉、ツネノ目ハカンナベニ水ヲ沸シ、タダレノ塩ヲ少シ入レ、筆ニツケ、手ノ甲ニテ湯ノ加減ヲミテハ目ノマワリ、マツゲ、マガシラヨリヤニトリ、目ノ内ヨリアケ洗ウナリ、サテ、 ソノノチ手ノ甲ヲ湯ニツケ、 シボリテ目ヲアタタメ云々」とあり、モグサの黒焼を振り出し
た汁や、沸騰した湯に少量の塩を溶し、それをさました温湯などが洗限に用いられていたこと、また、その殺菌された湯で温庵法なども行われていたことが窺われる。

 この様に本書は三喜法印の眼療法を伝えたものと思われるが、その底本となるものは明
らかでなく、あるいは三喜法印が入明の際彼の地で学びえた法を書きとめ、これが後に小笠原大膳大夫貞信の写し置かれることとなり、更にそれが後世、寛永9年に某氏の書写相伝されるところとなったと思われる。とにかく、今日伝えられるわが国の眼科諸流派の中、馬島流その他の流派とは別に三喜法印の法を伝える一派があったことをこの写本は伝えている。

 

 

  *田代三喜(1465−1537):田代兼綱の子(3男)、武蔵川越の人、名は導道、字は祖範、 号は範翁、支山人、意足軒、江春庵、善道、寛正6年(1465)4月8日武蔵川越に生れる。15歳で妙心寺に入り、 日玄と称し、 禅を修む、 また、足利学校で主利陽について医を学ぶ、長享元年(1487)、明に渡り、李東垣、朱丹渓の術を月湖及び恒徳の孫に受け、留学12年、 業成って、明応7年(1498)、34歳、医書を携えて帰朝し、鎌倉円覚寺江春庵に住し、永正6年(1509)関東の管領足利成氏に招請されて下総古河(茨城)に移り、還俗妻帯した。三喜の名声ますます四方に広まり、世に古河の三喜として知らる。67歳の時
に修業僧曲直瀬道三(一渓)と会い、李・朱学派を伝え、三高の学派は道三に継承された。それ故三喜はわが国における李・朱医学の開祖といわれる。天文6年(1537)2月16日、 古河にて病歿した。年73歳、(歿年に異説もある)
   
  **大膳大夫(だいぜんのかみ):大膳職の長官、大膳職は宮内省に属し、膳部を調進し、臣下に賜わる饗膳などを掌った所、役職に大夫、権大夫、売、権亮、大(少)進、大(少)属などがあった。

 


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    図1  田代三喜法印目伝之書眼病治療法、眼病図

    (朱や胡粉を用いた彩色図)を描いて治療法を述べている。

 

 

 

     
   
 
図2  図1同書 相伝識と年記 


 

(1983年 10月 中泉、中泉、齋藤)

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