研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。

この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

今回は 眼科諸流派の秘伝書(46)

55.『毛利氏療眼方 』です。

55.毛利氏療眼方

本書は毛利氏の口話を筆記したものであるがこの写本は長峯氏所蔵本により安永9年(1780)3月、元甫堂主人鼎庵が書写したものと思われる。本書の成立について次の様な後書が識されている。

「己上方法日向諸懸本荘毛利氏節愛者之所授節愛称新右衛門次家君之好授予於其常所試用方法及鍼揆之法蓋亦特恩云毛利氏時年七十有七、安永九年庚子春三月、元甫堂鼎庵書」

本書は全2冊よりなり、第1冊(黒付9葉)には安永庚子春記毛利氏口話、第2冊(墨付14葉)には安永庚子春写長峯氏本とそれぞれ表紙に同筆されている。本書はともにコヨリ綴り、片仮名混りの和文で記されてあり、第1冊には毛利氏(森氏)伝薬方、内障針術が述べら
れ、第2冊には熱鉄温金幷に針、引刀掛切、掛薬之方、蒸薬之方、洗薬之方、小児之方、服薬之方、および薬種能毒等について記述されている。

本書においては白内障の針術について詳述しているので、その針術とは如何なる方法であろうか。以下その一部を記載する。

「金針ハ瞳子ノ外半分斗リノ所ヨリ刺シ、瞳人中白翳ノ真中二針先ヲムケテ刺入ルベシ、針入ルコトニ三分四分迄入ル也、翳二針先キアタレバヨシ、其トキ三遍マワシテ針ヲヌク也、数遍マワセバ後痛ミ出ヅ、三遍ヲ過ベカラズ、マタ、マワストキ針先キ瞳子ノ外二出ヌヤウニマワスベシ、針先キ外二出レバ血出テ瞳子ノ内二流レ入ル、或ハ血筋ニナリテ瞳子ノ内二入ル也。薬ヲ用テ治スレドモ血ノ出ヌニシクハナシ、マタ、針先キ外二出テカキマワセバ後痛出ヅ可慎也、惣ジテ針後強ク痛メバ瞳子散大ニナル可慎、針シタルトキヨリ七日ノ間ワクニ病人ヲ入レ坐セシメ、頭ヲ低クセズ昼夜置ベシ、白治散ヲ毎日三度ヅツ指也、毒忌スベシ、後十一日目ニ又刺スベシ、其レトモ針後ノ赤ミ未除バ刺ベカラズ、能々透卜赤ミ除キ血去リテ後刺ベシ。如此シテ膿去り盡ルマデ三十度モ刺ベシ、翳固クテ解ヌハー年二年ヲ待テ刺ベシ。刺トキ針ヲヌケバ水多ク出レバ善候二非ズ、刺トキ針先キ翳二中レバ翳ボカボカ卜解分レテ動クハ善候ナリ。針ニ随テ膿出テ明ニナル也。楊梅瘡後ノ白内障ハ針シテモ明ヌ者也。常ノ白内障モ膿熟スルヤ否ヲヨク見分テ刺ベシ、三年四年二熟スルモアリ、初発ヨリ七、八年シテ熟スルモアリ、凡ソ内障ノ候始ハ少々カスミテ黒花アリ、其トキ蒸薬ヲ用テ引返スベシ。瞳子ノ色些少斗リモ常ニカワリテ白ミ見レバトテモ引返ス事不能、漸々白内障トナル也、常ノ瞳人ノ色ノ内ナレバ療治シテ引返ス也。白内障不療治其ママ棄ヲキテ数年ノ後自然卜見へ出ル者アリ、百中ノー人也。白内障数年歴テモ少々アカリ有テオボロニ見ヘル間ハ針シテモ不治也。ヒシト見ヘヌ程二膿熟シテ後針スベシ、又少々アカリ見ヘテ熟シカ子ル目ニハ熟針卜云テ針一本刺バ早ク熟スト云。

針ヲ用タル病人ノ居ル處二懐妊ノ婦人来レバ痛出ル者ナリ、惣ジテ針シタル病人ノ居ル家ニハ妊婦井汚穢不浄ノ者入ル事ヲ禁ズベシ。

白内障ハ熱病後ヨリ発スルコト多シ、目少々カスミテ黒花出ル也、其トキ瞳子ノ内未暗明亮ナル内ハ○薬ヲ用ヒ點服兼施ベシ、早ク療治スレバ治ス、若瞳人内二芥子ツブ程ノ白キ物出ルカ、又ハ瞳人ノ色少シ常ニカワリテ白ニゴリニ見ル様ナレバトテモ不治也。ステ置テ数年ノ後膿トナル、膿ヨク熟スルヲ待テ針スベン。

白内障ノ人年齢四十五六マデハ針シテ治ス也、気血盛壮ナル人ハ五十マデモ針シテ治スルモアリ、老人ハ針シテモ見ヘズ。芒刺ノタチタル目ハ芒刺ヲ取去ヌ間ハ幾年歴テモ治セヌ者ナリ。

白内障可刺候二至レバ其白翳浮テ摘取ベキ様二見ユルナリ。其候二及デ針揆スベシ。若シ其翳深ク在テ瞳人ノ底二居ル様二見ユル内ハ不可針云々」

日本最古の医書である『医心方』(永観2年・丹波康頼撰、30巻)を初め、眼科諸流派において行われた、わが国の白内障手術療法の源は、印度眼科が扁鵠や華陀によって中国にもたらされ、 さらにそれがわが国に伝来されたものである。後世伝えられた馬嶋流等眼科諸流派の秘伝書の針をたてること(内障限手術)については何れも秘密のベールに包まれ、その記載は敢て極く簡略にされてきた。これを“内障鍼"の項目のもとやや詳しく公開的に述べた眼科書が、元禄2年(1689)にわが国で初めて刊行された『眼目明鑑』(全5巻)である。 その項目の下には次の様に述べられている。

「内障二針立ルコト 先ソノ人ヲ朗日ニ向テ仰二伏シメ頭目ヲ動サズシテ手ヲ以テ眼ヲ按へ針先二唐墨フ塗テ白黒眼ノ境ヨリ鍼ヲ横ニシテ瞳子ヲ通リ内障ノ真中へ行テニヒ子リシテ是ヲ抜バ膿少シ出ベシ。其トキ射香ヲ以テ針ノ跡二灌キ必ズ眼ヲトヂ塞ガシメ濃紺ノ絹ニテ眼目ヲ縛リー宿二及ブベシ、 ソノ糺縛スルコト弱カラズ強カラズシテ明日ニ至テ弛ベシ。十七日ノ間色ノ物ヲ観ベカラズ。或人云芘麻子ヲ用テ研テ針ノ跡ニヌレバー宿ヲ経テ膿自ラ出卜云リ。鍼ヲ立ルコト深サ五分二過ズロ伝有、或人云大皆ノ側ノ白黒ノ境ヨリ針先ヲ瞳ノ方二傾ケニ刺シテ抜ナリ」

ここで『眼目明鑑』と『毛利氏療限方』の白内障針術の方法を比較すると、『毛利氏療眼方』は『眼目明鑑』よりさらに広く詳しい説明になっていることがわかる。このことは元禄年代より安永年代に時代が下るにしたがって白内障針術の方法等の口伝が眼科諸流派においても次第に秘密主義から公開的になっていったことを意味するものと思われる。

本書は今からおよそ200年程前の安永9年頃日向諸懸本荘(現宮埼県東諸懸郡国富町本庄?)に伝えられた毛利新右衛門伝授の眼科秘伝療方の一本であり、当時の眼病治療法の一端を窺い知ることができる。



主な参考文献
杏林奄:  眼目明鑑、元禄2(1689).水田甚左衛門
小川剣三郎:  稿本日本眼科小史、63、吐鳳堂、1904
庄司義治:  日本眼科全書、24、水晶体疾患360、金原出版、1960.
福島義一:  日本眼科全書、 1、 日本眼科史、73、金原出版、1954.





図1  毛利氏療眼方の外装



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図2   図1同書後書

(1985年10月 中泉、中泉、齋藤)