研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。

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今回は 「施里烏私眼科書と 施里烏斯眼科全書(1)」です。

施里鳥私眼科書と施里鳥斯眼科全書(1)

 19世紀の前半ドイツ外科学界の中心的人物と言われたセリウス(Maxilliam Joseph von Chelius 1794~1876)の著書、いわゆるセリウス外科書 (Handbuch der Chirurgie,zum Gebrauch bei seinen Vorlesungen) が1822年~23年の初版以来1857年までにおよそ8版を重ね、11カ国語以上に翻訳され、ドイツを初め広く流布した教科書であった(順天堂史、上巻87頁)ことは周知の通りである。 わが国ではその蘭訳本―Leerbook der Heilkunde naar dezeutigabe vertaalden vermeerderd door. Pool GJ, Amsterdam, 1830~1832, が佐藤舜海(幼名:竜太郎、諱:尚中、字:泰卿、号:舜海、笠翁―1827~1882)らにより翻訳され、「瘍学全書」として知られる。セリウスは1819年以後、彼の母校であるハイデルベルク大学の外科の正教授をつとめ、同地の外科眼科教室を創始して、その名声を大いに高からしめた人であると伝えられ、眼科学にも大変長じていて、その著、 Handbuch der Augenheikunde (2巻)が1839~44年にスツッツガールトで出されたといわれている。

 わが国の幕末頃、邦語に翻訳されたヨーロッパの眼科書は主として蘭文眼科書であったが、その翻訳眼科書の中には内容は変わらずとも文章は異なっていたものが多かった様である。当時の翻訳事情について小川剣三郎博士は次の様に述べられている。「当時ニアリテハ眼科医ニシテ蘭学アルモノが蘭文眼科書ヲ訳セルニ非スシテ、蘭学ヲ学ブハ蘭医書ヲ訳読スルニアリタルヲ以テ同一ノ書ガ各方二於テ反訳セラン、マタ其何レモガ敢テ全編ヲ訳了セルモノニ非リシナリ」つまり同一書が各方で部分的に翻訳された可能性が強いといえる。

 ここに紹介する『施里鳥私眼科書』および『施里鳥斯眼科全書』はともにその一部であるが前述の様な翻訳事情を背後にもったものと思われる。セリウスの眼科書は伊東貫斎(旧姓:織田、諱:盛貞、字:文仲、号:貫斎、1826~ 1893)が翻訳して『眼科新編』(3巻)として出されたが、これはChelius MJ 著“Handbuch der Augenheilkunde zum Gebrauch bei seinen orlesungen” 1843年と1849年の蘭訳より翻訳したものであろう(小川剣三郎〉といわれ、その部分訳と訳者は次の通りである。

セリユース氏眼科書(1863年)
第1章  第193章 佐藤舜海訳
第1章  第166章 藤田珪甫訳
第279章 第458章 佐藤舜海訳
第325章 第458章 藤田珪甫訳
第494章 第567章 織田貫斎訳
第507章 第532章 藤田珪甫訳

 以上は小川剣三郎博士の調査されたものによるのであるが、『順天堂史』上巻によればセリウス眼科書の伊東貫斎訳『眼科新編』の(文久元年版)貫斎自書による序文の中には「この書はセリウスの名を標して、その実は和蘭ポールの編述なり」とあり、なぜか原著者セリウスよりも蘭訳者ポール(Pool GJ)の功績を讃える文になっていると書かれていることが述べられている。(『順天堂史』上巻88頁)。こうしたことから貫斎は文政9年(1826)5月19日に織田筑後の二男に生れ、生長して長崎に赴き蘭人の教えを受け、弘化2年(1845)には緒方洪庵の門人となり、その後嘉永6年(1853)4月29日には伊東玄朴(1800-1871)の女婿とより織田姓を伊東に改めているが、貫斎は「長崎留学のとき、この書を得て読み、初めて眼科の要領を知って非常に嬉しかつた」と、彼の序文に述べられているといわれる様に、長崎留学の折、セリウスの眼科書の蘭訳本を手にして読んだものと推察され、その後、『眼科新編』の翻訳がなされたものであろうか。

 さて、掲出の『施里鳥斯眼科全書』は第6、 7編(治療篇)、第8編(手術篇、薬方篇)の2冊よりなり、訳者に“佐倉、佐藤舜海" とある。一方、『施里鳥私眼科書』は後輯巻1(第5篇上)、巻2(第5篇下)の2冊よりなり、 その各巻頭に
  紀元千八百三十六年鏤行
  和蘭 傑伊蒲児
  肥前、藤田珪甫未定重訳
と識されてあり、藤田珪甫(万延元年松本良順を介してポンペの門人、良順、舜海とも師弟関係があり、後、順天堂の門人となる)が傑伊蒲児蘭訳本を重訳していることがわかる。しかし、この『施里烏私眼科書』には目次の次に以下の様な重訳者(藤田珪甫)の覚書と思われる添書きがある。

「施里鳥私著述セル処ノ眼科書ハ前後二輯アリ、前輯一巻ハ第一篇ヨリ第四篇二至ル、響二紅園佐藤先生之ヲ訳定シテ眼科全書卜名ツク、後輯一巻ハ第五篇ヨリ第八篇二終ル、則チ余今訳スル処ノ者是レナリ。同志ノ者能ク注意セヨ言々」

この文面より施里鳥私著述の眼科書はその前輯(第1篇より第4篇まで)を佐藤泰然、(1804~1872)が訳定して『施里鳥斯眼科全書』 と名付け、その後輯(第5篇より第8篇まで)は藤田珪甫が未定重訳したものと解される。


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図1 『施里烏斯眼科全書』 表紙


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図2 図1同書第7編。459章 眼創。 佐倉 佐藤舜海訳。


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図3 『施里烏私眼科書』 後編 藤田桂甫 未定重訳。表紙

(1986年2月 中泉、中泉、齋藤)