研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。

この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

今回は 「眼科要略」です。


『眼科要略』 

 古くから漢法眼科を主流にして来たわが国の眼科は蘭法眼科が急速に移入される様になり.、その精確さが認められるに至って、従来の漢法の他に蘭法や漢蘭折衷といった眼科が盛んになり、次第に漢法眼科の弊をただそうとする方向に変わって行った。眼科書もこれまでの秘方秘伝書などは次第に影をひそめ、基礎的、臨床的に裏付けのある蘭法眼科書が翻訳され、編纂されるものが多くなった。こうした時期、文久3年(1863)より慶応元年(1865)にわたり.中川哲(字明甫、号淡齋)編集によって刊行されたのが『眼科要略』である。

本書は.中川哲がその凡例に「西哲ノ書二就テ諸説ヲ折衷シ……編輯ノ例一々扶氏遺訓ノ体二従イ……主トシテ布斂幾(プレンキ)、設里鳥斯(セリウス)ヲ研覆シ、旁ラ悉篤満(チットマン)、謬布涅兒、扶歌蘭土(フーヘラント)、季加兒度及ビ模斯篤(モスト)等ノ群籍ヲ参考シテ……」と述べている様に、多くの蘭法医書によってその諸説を折哀し結集したものとみることができる。

 また、本書の巻尾(巻3および巻6)には多数の彩色眼病図、眼療器具図および光線諸図が所載されているが、その凡例に「…緒図取中目樗山翁目病真論、者居多、家厳嘗従翁受其口訣手術、雖今不主一家、竊存影響千此所以不忘旧誼也、諸証名例不一、不必例諸書所載云」「諸図係視学一歩所載者今掲之……」とあり、本書に所載した諸図は中目樗山(1808~1854)著『目病真論』(全4巻嘉永3年刊)や中環(天游、1783~1835)著『視学一歩』など参考にしていることがうかがえる。

 さて本書は1集から3集まで9巻9冊が文久3年(1863)より慶応元年(1865)にかけて刊行されたといわれる。筆者の所蔵本は第1集および第2集であり、この2集について述べる。
第1集 巻1ー3(3冊)
播磨 中川哲 明甫(淡齋)編輯 
中川鴻 碩平     参校
文久三年癸亥季春二月新鐫 日新居蔵

第2集 巻4ー6(3冊)
播磨 中川 哲明甫(淡齋)編輯
中沢 満 不溢 
美作 永田駒士鳳  参校
文久四年甲子孟春正月新鐫 日新居蔵

 第1集、第2集はこの様な編輯出版となっているが、第2集巻6に所載の広告欄には、「
眼科要略 第二集近核、補遺三巻嗣出」となっており、第1集、第2集、第3集および補遺をもって完結になるものと思われる。

 この第1集(文久3年刊)および第2集(文久4年刊)にはそれぞれ序・跛が掲げられ、第1集にのみ“眼目内象図"が所載され、“眼目諸器大略"“外影交叉映写眼底之説"などが付け加えられている。

 本書の内容は本文において各種眼病の証候、原由、治法および薬剤処方が述べられ、第1集第3巻と第2集第6巻の各巻尾に彩色の眼病諸図と器具諸図が所載されている。各巻の内容を目次によって抄記すると以下のごとくである。

巻1 第1編: 総論 急性眼焮衝 聖京掘眼焮衝 僂麻質斯眼焮衝 瘰癧毒眼焮衝。
巻2 第2編: 初生児眼焮衝 梅毒眼焮衝 痘毒眼焮衝 淋癧毒眼焮衝 先天毒眼焮衝 皮膚病毒眼焮衝厄日多眼焮衝。
巻3 第3編: 経閉眼焮衝 痔毒眼焮衝 痛風毒眼焮衝~矢荀児陪苦眼焮衝 麻疹毒眼焮衝 白膜病 眼目疼痛 白膜翅翳 額膜血班。
巻4 第4編: 白膜焮衝(白膜即結膜)白膜詠腫 白膜小瘖癌* 白膜肉粒 眼瞼焮衝・ 眼瞼外面焮衝 眼瞼腺焮衝 眼瞼赤爛*(一名内外結膜焮衝 漢名爛弦風)粟粒腫* 附霰腫* 眼瞼嚢膜腫 眼瞼外反* 眼瞼接合 眼瞼水泡*  眼瞼内巻*  眼瞼糊瘤*  眼瞼稗腫*  瞼着眼球*
兎眼*  上瞼低垂* 眼瞼庁 眼瞼破裂* 眼瞼疥癬*
巻5 第5編:  眉睫落毛* 眉睫生虱* 眉創*  瞼毛錯立 重睫*
第6編:  涙阜焮衝  涙嚢焮衝*  眼目乾燥* 涙管瘻* 涙液多出 眼眵* 涙嚢水腫*。
巻6 第7編: 角膜焮衝 角膜班點*・ 角膜曇暗* 角膜潰瘍* 角膜蝕翳 赤詠侵入 角膜破裂 葡萄膜突出 角膜創傷* 角膜葡萄腫*(*印は『眼科新書』に所載の病名)。

 前述の様に本書の巻尾(巻3および巻6)には多数の眼病図、手術図、眼療器具図および光線諸図が掲げられているが、それぞれの名称だけを挙げると以下の通りである。

巻3  巻尾所載の眼病図名称: 急性焮衝眼、聖京倔眼焮衝、眼簾瞳人全壊、旋螺尖起、眼球翻花、翻花異証、眼癰、葡萄膜突出、角膜秤翳、蟹晴突出、眼球垂懸、白膜腫瘍、白膜庁、白膜血班、眼瞼青班、焮衝眼異証、角膜自迫、角膜醸膿、角膜小瘍、垂簾膜、墜晴醸膿、眼瞼粟粒腫、涙腺瘻、血筋纏球、血筋渋刺、簾膜下生、半月翳、眼球墜晴、・涙液混血、角膜創傷、二瞳孔、内眥翅翳、外眥翅翳、翅翳従下上、翅翳上下連接、上瞼外反、下瞼外反、瞼毛錯立、麦粒腫、上瞼低垂、眼瞼翻花、瞼毛錯立施術、眼胞破血、爛眩風、眼
瞼息肉、眼瞼内巻、桑椹腫。
巻3  巻尾所戴の器具図名称: 圧絡帯、布帯護両目、遮風鏡、滴水器、吸角鈎、内翳鍼、小方鑷子、按定環、照眼鏡、横載刀、小偏偏刃刀、翅翳鍼、湾頭鋏、銅爽、竹爽、小水銃、温金、點薬匙、眼盃、蘭攝多、小湾頭鋏、三稜鍼、鎌刃刀、小烙鉄、鑷子、玲瀧管、眼盃(紐付)。

巻6  巻尾所載の眼病図および施術図名称: 白膜焮衝、角膜膿粘、白膜脈腫、赤脈侵入、葡萄膜尖垂、新月膿、半月膿、満膿眼、眼瞼接合、瞼著眼球、涙嚢腫、眼瞼庁、牛眼、眼球脱失、眼球硬結腫、毛虱、眉創、重睫、霰腫、眼瞼破裂、眼瞼縫合、角膜焮衝、角膜陷
騎、左眼涙腫、右眼涙漏、白内障行横鍼之図、直鍼之図、黒内障、瞳孔不動不圓、瞳孔縮小、瞳孔開大、瞳孔陥凹、棗花翳、白内障、緑内障、瞳孔異形、金花翳、無瞳内障、血眼、瞳孔陥缺。

巻6  巻尾所載光学諸図: ここには中環述、『視学一歩』の光学図、 1図、 2図、 3図、又之図、 4図、 5図、又之図、 6図、 7図、 8図、12図、13図、14図、15図、16図、17図、又の図、18図、19図、21図、23図、24図の計22図と同様な図を載せている。これら本書に所載された病名や図の中には杉田立卿述『眼科新書』(文化12年刊)、本庄普一著『続眼科錦嚢』(天保8年刊)に所載のものと同様なものもみられ、 これらの眼科書も参考にされた様に考えられる。前述の様に本書が中目流眼科の中目樗山にかかわつていることは、中川明甫の父中川主水(継)が中目樗山の問人であったことに大いに関係がある様に思われる。

 中川哲(字 明甫、号 淡齊)は中川主水(善継、通称主水、号 神洲、1804~ 1876)の次男として天保9年(1838)に生れ、元治元年(1864)9月、長崎に遊び精得館においてボードイン(A F Bauduin)の教えを受けたといわれるが、慶応2年(1866)9月24日、惜しくも29歳の若さでこの世を去ったと伝えられる。父主水が63歳の時である。主水は40歳の頃眼科を志し、当時姫路に眼科栗原某という人があつて、 これに学ぶこと2年、遂にその秘伝をつくして蘊奥を伝えられた。その後、中目樗山が東奥(仙台)より浪花に移り、針刺の法に精しいことをきき、浪花に出て中目樗山に親災し、 3カ月の間、眼科の術を学んだといわれ、 また、その間、緒方洪庵にも従学した(小川剣三郎、実眼1)と伝えられる。中目樗山門人録にも中目継(播磨)の名で載つているところより、中川哲は父を通じて中目流眼科を学んだものと思われる。
 『眼科要略』第1集、第2集は6巻7編よりなり、証候、原由、治法および薬剤処方等を述べた本文と巻3および巻6の各巻巻尾に附された図をもって構成されているが、本文と附図との関連は必ずしも明確ではない様である。本書は私見を加えず蘭書を中心に西洋の医説を折衷して編集されたものと思ゎれるが、本書をして小川剣三郎博士は「豪も独創の説あることなしと雖も当時にありては其博く参考書を蒐集せるの一事、既に賞するに足る」と評されている。中川哲が広く内外の諸書を参考にし、当時としては西洋眼科の最新の医術を採り入れて編集した最も斬新的な、いわば図集眼科全書ということができようか。

 

主な参考文献
本庄普一: 眼科錦嚢 芳潤堂、 天保2、(1831)
本庄普一: 続眼科錦嚢 芳潤堂 天保8、(1837)
小川健三郎: 稿本日本眼科小史 吐鳳堂、 東京、(1904)

小川健三郎: 実眼 1:622、624 (1918)
小川健三郎: 実眼 6:54、(1923)
河本重次郎: 本庄普一の眼科錦嚢に就て 中眼 14:121、199、 287、 355、 415、 487、 (1922)
福島義一:: 日本眼科全書1 日本眼科史 121、金原出版、 東京、(1954.)

 

 

 

   図1 眼科要略 扉および序。文久3年(1863)刊第1 集。

 

 


   図2 眼病図および眼療器具図。図1同書巻3所載。

 

 


   図3 眼病図および光学図。文久4年(1864)刊、巻6所載。


(1986年8月 中泉、中泉、齋藤)