研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。

この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

今回は 『眼科摘要』です。


『眼科摘要』 

 オランダの海軍衛生官ポンペPompe van Meerdervoort(1829~1908)が安政4年(1857)8月、来日し、長崎の養生所において、 日本で初めて系統的医学教育を行ったことは一般によく知られている。ポンペの医学講義は予備学科、基礎医学および臨床医学の順で行われたが、眼科学の講義においても眼の解剖学や生理学を解説した後に眼病の診断や治療が説明されたといわれている。ポンペの講述したものは主に松本良順(字 子良、号 蘭疇、楽痴、1831~ 1907)の筆記に係るもので、今日写本にて伝えられているものもある。

 外人教師の講義録をその門下生などの翻訳により刊行された眼科書の主なものには本書の外にもミユルレルの眼科全書(田口和美訳、明治4年刊)、 シユルツェの講義録(甲野棐訳、明治9年刊)等があり、ポンペの『眼科摘要』はヨーロッパ医道変革後の説に基づく最も新しい眼科として、明治の初めに広く読まれた眼科書である。本書の巻頭には、「荷蘭 朋百般黙児壇児法爾篤(ポンペフォンメーデルフォルト)抄、佐倉 佐藤舜海 閲 倉次元意 訳」とあり、その抄訳本であることがわかるが、その序文(明治2年正月、佐藤尚中識)、および凡例(明治元年12月、倉次元意誌)によると、本書は和蘭第二等医官兼海軍衛生督朋百般黙児姪児法爾篤すなわちポンペが寄陽(長崎)に在る時、生徒(伝習生)を教諭するために、普魯士(プロシア)の医官 警捏屏遍爾(ケーニヒスベルク)の眼科書(1860年版)によって繁を去り、要を摘み、自家独特の説を加えてオランダ語の鈔本にしたものを佐藤舜海(諱 尚中、字 泰卿、号 舜海、笠翁、1827~1882)が長崎に留学の折、ポンペより得て、それを手写して佐倉(藩校医学所)に持ち帰り、舜海の弟子倉次元意(佐倉藩医、慶応2年二等医師)が和訳し、舜海の校閲を得て出版されたものと解する。
また、一説には舜海が長崎に遊学したときポンペから眼科書をもらって帰った。それが今日千葉大学に現存するが、その一部を弟子の倉次元意が訳して『眼科摘要』と題して出版した(順天堂史)といわれている。これが翻訳されたのは、舜海が蘭訳本を携えて遊学から帰ったのが文久2年(1862)3月(3月14日、佐倉着)のことといわれ、それ以後と考えられるが、河本重次郎博士は「訳は慶応2、 3年頃から始められ、明治元年12月末には全部終了し、翌明治2年正月舜海に序を請てたものであろう」と推想されている。この舜海の序文は「男爵佐藤進先生が尚中先生の命をうけて起稿し、佐倉藩の儒者續豊徳(号古堂)氏の添削せられたるものなり(佐藤男爵直話)」と伝えられている(小川剣三郎)。

 本書は全9巻9冊(22.5×15 cm)片仮名混りの和文、四周単辺、有界、毎半葉10行、毎行20詰、和綴の刊本である。その内容を、本書の總目録により各巻毎に抄記すると以下のごとくである。

  巻1: 眼疾總論 薬剤總範: 
    不可量物、気類、滴流物、眼水、眼蒸法、.眼浴法、稠厚物、眼膏、眼散、 眼硬膏、乾腐蝕薬
  巻2: 血管系統過度病: 血積病、溢血病、自血液所分泌之疾病: 水液病、粘液流出病
  巻3: 眼器焮衝病  各異焮衝病: 
    眼瞼焮衝、眼瞼蜂窩織焮衝、眼瞼組織焮衝、眼瞼血瘍、眼瞼瘍、
眼窩内蜂窩織及骨衣焮衝、睫毛根焮衝、粟粒腫、メーボーム梜窩衝、涙阜焮衝、
涙梜焮衝、涙嚢焮衝、眼筋及筋衣焮衝、
  巻4:  眼球結膜焮衝
  巻5:  強膜焮衝、角膜焮衝、角膜潰瘍、角膜曇暗
  巻6:  角膜穿鑿、角膜貌僂屈、紅彩脱出、仮角膜成形、角膜層損傷、角膜圭状突起、 紅彩焮衝、瞳孔変形及数瞳孔
  巻7:  水晶体系統病: 水晶体創、水晶体自脱、水晶体及嚢焮衝、灰白内障翳
  硝子体病:  硝子体焮衝、硝子体水腫、硝子体軟化、硝子体曇暗
  網膜病:  網膜充血、網膜焮衝、 日盲、夜盲
巻8:  脉絡膜及尾状展焮衝: 脉絡膜血積、尾状展焮衝
  涙器病:  涙検焮衝、上眼瞼涙嚢腫、涙梜瘤、涙嚢焮衝、涙嚢漏、涙梜涙嚢鎖閉、 涙管息肉、涙阜腫、
  眼球病:  眼球創、全眼焮衝、眼球漏
巻9:  内障翳鍼術図説   造假瞳孔図説

 

 この目次によって本書の内容がおよそ察せられるが、本書には眼の屈折で扱う遠視や近視などについてあまり記されておらず、これは原書に其篇がなかったものか、またはポンペが講義を省略したものか、あるいは倉次元意が翻訳を簡略したものか定かでない、と河本重次郎博士は『眼科小言』に述べられている。第9巻には手術式を述べ、白内障の手術としては撥下法およびベール氏式の摘出法を記し、第1図(1―6)、第2図(1―12)、第3図(1―24)を掲げ、第1図および第2図において手術方法、第3図には手術器具の図を示し、各図それぞれに図解を記している。また第9巻の巻頭に、佐倉、佐藤舜海刪定、倉次元意訳とあり以下の文を載せている。

 「本篇原卜手術ヲ載セス、灰白内障翳ノ如キハ手術二非レハ実ニ恢復ニ至ラス、朋百氏ノ書ハ別ニ手術書アリ、ヨリテ其書ニ就テ、此症ノ手術ヲ補ハント欲スレトモ、如何セン其書図解ヲ載セス、灰白内障翳ト、假造瞳人トハ図解ニ非レハ、其蘊奥ヲ領会スルコト能ハ
ス、是ヲ以テ佛朗西人、瞥児邦兒度(ベルナール)氏ノ著ス所ノ外科術解剖書ニ就テ、手術ニ喫緊ナル図解若干卜、傍ラ假瞳人図解トテ抄訳シ、本篇ノ缺ヲ補シトス、云々」とあり、つまり本書の原本には手術篇はなく、 ポンペ書には別にあったが灰白内障翳や 造瞳人の図解を欠いていたのでフランス人、Bernardの書より図解を引用し、 その欠を補うたものと解される。また、訳者倉次元意の凡例には「病名モ亦タ先輩、訳例ニ従ヒ『西醫略論』ノ病名ヲ襲用スル所モアリ、云々」とあり、英人、 合信(ホブソン)の著『西醫略論』(安政5年刊)なども参考にされたことが窺える。

 本書は初編(巻1―3)、2編(巻4―6)、3編(巻7―9)に刊記があるが、第1巻、 第4巻および第7巻の各扉に印刷された刊記には慶応2年丁卯(慶応3年丁卯の誤りか)版と明治2年己巳版の2通りがある。何れも臨湖山房蔵、 英蘭堂鳥村利助発兌である。

 わが国の医学教育におけるボンペの功績として、従来の素読式講義を図説式講義に改め、実験を併せ行わせ、旧来の医学教育の方法を全く新しい形に改善した。体系的科目を定めて、 これを時間割に組んで講義を行い、学科制度を確立した、医学教育の場、医学校には
必ず実習のために病人を収容する病院を附属させた。
 以上3点が挙げられている(山崎佐、長崎医学百年史、23)が、ボンペのこうした斬新的医学教育の場に本書の原本(蘭訳)が初めて用いられ、その講述筆記がいち早く佐藤舜海、倉次元意等によって邦訳され、幕末から明治初期における眼科医範となったことは誠に意義深い。


 

 図1『 眼科摘要』

 

 


   図2 『眼科摘要』慶應版

 

 


   図3 『眼科摘要』 所載図

 

   図4 同、所載図

 

 

 

図5 『西醫略論』 (安政5年刊) 所載の眼病図

 


(1986年9月 中泉、中泉、齋藤)