研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。

この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

今回は 『眼科実地此事須知篇と視力乏弱病論』です。

 文化12年(1815)に杉田立卿(名 豫、通称 立卿、、号 錦腸、天真楼、1786―1845)訳述の『和蘭眼科新書』(全5巻、附録、 1巻)がわが国の翻訳眼科刊行書の第1号として出版され、西洋眼科学との接触が本格化したが、文政6年(1823)、 シーボルト(Philipp Franz von Siebold、17961866)の来日によって、その実地医療が着実に推進され、 ようやく日本の眼科も名実ともに近代眼科への道を踏み出した。こうした時代、医家として、 また医育者としての高良斎(名 淡、字 子清、号 良斎、17991846)や緒方洪庵(名 章、字 公裁、号 適々斎、華陰、18101863)らが相次いで出て、その語学力と医学知識を基に洋方眼科の他、医学
全般にわたり数多くの翻訳、著述を行って、 日本の近代医学、眼科学の発展に計り知れぬほどの影響力をもたらしたことはよく知られた通りである。

 掲出の写本、『眼科実地此事須知篇』は高良斎が、『視力乏弱病論』は緒方洪庵がそれぞれ蘭訳本より重訳し、19世紀初めのヨーロッパの眼科学をわが国に伝えた眼科書といわれているものである。以下この両書について考察する。

 『眼科実地此事須知篇』は高良斎が長崎に留学していた文化14年(1817)10月から天保2年(1831)5月までの間に訳出したものと思われるが、写本の巻頭に「眼科実地此事須知篇、紀元千八百十六年銭刻 高知輔訳」と識され、 また巻末には「和蘭 斯底邊蘇著、鉄仙訳、 日本 高淡重訳」と書かれていて、 ステヘンソン原著、テッセン蘭訳(1816年版)から高良斎が邦訳したものと解される。高良斎が留学の14年間に著訳した書籍は約30種200餘巻におよんだといわれており、良斎の蘭語の卓抜さと努力家であることがうかがえる。

 本書は全1冊36葉(233×16 cm)漢字片仮名混りの文語調で書かれた写本であるが全体を7篇の項目に分け、各篇を詳述している。訳述された内容標目は次の通りである。

第1篇 視神衰弱眼諸症井起因
第2篇 視神衰弱眼卜錯誤混乱スベキ諸症ノ区別ヲ論挙ス
第3篇 視神衰弱眼二係スル治法
第4篇 鳥率礼治験ヲ弁明ニス
第5篇 一切救方及下剤、外敷剤
第6篇 眼水薬総説
第7篇 諸症大底退イテ後ノ調理治療法ヲ論スル

 高良斎は本書をこの様に7篇に分けているが、 また自説を欄外に註記して補説としている。

 次に『視力乏弱病論』であるが、 これは全1冊49葉(24.3×16 cm)、漢字片仮名混りの文語調にて記述され、後世の精写である。巻頭に「視力乏弱病論 第二板 和蘭 一千八百十六年銀行 暗厄利亜 ヨーン ステヘンソン著和蘭 ティスセン詳註備中 緒方章公裁詳稿」とあり、暗厄利亜(アングリア:古語の英語)すなわち英国人ヨーン ステヘンソン原著をオランダのティスセン詳註、1816年第2版をさらに備中の緒方公裁が重詳したものと解される。

 本書が訳述された時期は洪庵の蘭学修業時代といわれ、すなわち洪庵は文政8年(1825)2月5日、16歳となり元服し、翌文政9年(1826)7月、洋方医家、中天済(名環、字環中、号思々斎、天海、1783―1835)の問人となり、訳書によって西学を習得、この4年間の修業で当時の訳書はほとんど読みつくしたという。その後、洪庵は天済に原著から直接医学の知識を求めるよう、江戸への遊学を勧められ、22歳の春、すなわち天保2年(1831)2月、江戸に出て蘭学の大家坪井信道(名 道、字 信道、号 誠軒、冬樹、1795―1848)の間に入り4年間苦学の道を歩みながら勉学に努力し、多くの翻訳、編述を行つた。その後洪庵は天保6年(1835)3月、 7年ぶりに足守に帰り、 また大阪の中天済方へも行つているが、天保7年(1836)2月10日、2年間餘の長崎遊学の途についている。本書が翻訳されたのはこの江戸修業時代かと思われる。つまり、長崎留学に出る前の天保2年から同6年頃の修業時代と想像される。本書は一言でいえば視力の弱くなる病気について、原因や療法その他を論じたものを訳したのであるが、その内容を目次によって抄記すると以下の通りである。

第1篇 論視力乏弱病之症候及原因
第2篇 論視力乏弱病与他病之区別
第3篇 論視力乏弱病之療法
第4篇 掲示症候療法之證櫨
第5篇 論方剤
第6篇 論貼眼水
第7篇 論療法之餘義

 この様に全体を7篇に分けて論じているが訳文は平易でわかりやすい。

 次に両書の類似性についてであるが、双方とも7篇に分け、各篇はほぼ同様な内容が訳述されている。例えば本文の1部を併記してみると、眼科実地此事須知篇 第6篇 眼水薬惣説「…親ラ眼水薬ヲ試用シテ法弗満ノ眼水薬ハ妄用スヘカラサルノ説ノ真ナルコトヲ知ル。夫眼病ヲ療セント欲スル者ニナル素ヨリ眼ノ外用方ヲ撰用スルニ悪キ旧轍アルハ大二傷ムベキコト也。眼鰍衝ノ方初発二於テハ収叙洗方ヲ施コスコト世間一統ノ為ス処ニシテ云々」視力乏弱病論 第6篇 論貼眼水「…世医ノ眼ロニ外用スル薬方及ヒ療法ヲ見ルニ謬誤ヲナスモノ甚ダ少ナカラズ、故二予今『ホッフマン』ノ考按二憑テ論説ヲ設ケ以テ学者二示サントス。夫ン眼鰍衝ノ初発二於テ収飲性ノ洗剤ヲ用ユルコトハ世人ノー般ニスル所也云々」

 このように両書を丹念に照合すると、字句の相違はあるが内容は同じで、 この両書は同一原著、すなわちステヘンソン著、テッセン蘭訳(1816年第2版)を高良斎、緒方洪庵が別々に訳述し、それぞれに異なった書名を付けたものと考えられる。つまりこの両書は同じ内容の訳本ということになる。しかしこの原著の書名が不明であるのが残念である。ともかく当時の一流蘭方医家であった高良斎や緒方洪庵らが相継いで本書の翻訳を行っていることは本書が当時のヨーロッパ近代眼科学の知識として重視されていたことを物語っている。

主な参考文献    
  緒方鐘次郎:  緒方洪庵と足守 大阪、1927
  高 於菟三・高 壮吉:  高良斎 東京、1939
  緒方富雄: 緒方洪庵伝 岩波書店、東京、1942
  富士川游:  日本医学史 日新書院、東京、1943
  福島義一: 日本眼科全書 1 眼科史 104、日本眼科学会編、金原出版、東京、1954
  青木一郎: 坪井信道の生涯.杏林温故会、大阪、1971
  岡山大学: 岡山大学医学部百年史 岡山大学医学部、1972
  中泉行正: 日本近代眼科開講百年史.幕末における日本眼科事情 臨床眼科26:1345、1972


 

 
       図1 『眼科実地此事須知篇』 標目および巻頭



 
        図2  図1同書 巻末記


         
         図3 『視力乏弱病論』 第1篇 初頭

         

1986年10月 (中泉・中泉・齋藤)