眼科治論書
わが国の天保10年(1839)より嘉永7年(1854)までの間は多くの急進派蘭学者の投獄、蘭書翻訳の取締、翻訳医書出版の許可制、あるいは医官の蘭方行為厳禁等々幕府の蘭方への弾圧が強められ、いわゆる蘭学圧迫時代であったが、幸い外科や眼科は大目にみられ、熱心な医家や蘭学者達によってオランダ医書の翻訳が、次々に行われた。しかし、 このような事情のため原著や翻訳者の名が明らかでない翻訳書などが多い。『眼科治論書』もこうした類のものか、今日伝えられている写本には“1792年越児物鏤行"とあるのみである。
掲出の『眼科治論書』は内田貞氏(浜松)が他の一本により校訂したもので、63葉全1冊、和綴(26.5×18.8cm)、漢字・片仮名混りの和文、本文57葉、附録6葉よりなる精写本、内容は内障眼手術、鰍衝眼図解について述べたものであるが、今その標目よりみると以下の通りである。
眼科治論標目: 眼目ノ組織ヲ論ス、視性ヲ論ス、総テ眼病ヲ論ス、内障眼ヲ論ス、区別ヲ論ス、本性ヲ論ス、膜質「カタラクト」ノ真義ヲ論ス、総テ「カタラクト」ノ原因ヲ論ス、傍症ヲ論ス、解剖術二由テ発明セル水晶液変常ノ所為ヲ論ス、膜質「カタラクト」ノ
所為ヲ論ス、二種ノ「カタラクト」二通常ナル所為ヲ論ス、水晶液「カタラクト」ノ傍症ヲ論ス 徴候ヲ論ス、續症ヲ論ス、治法ヲ論ス、通法ヲ論ス、特法ヲ論ス、「カタラクト」ノ針術ヲ論ス、針術ノ通法ヲ論ス、総テ「カタラクト」二於ケル針術ノ謬誤ヲ論ス、膜質「カタラクト」二於ケル針術ノ謬誤ヲ論ス、針術ノ新法ヲ論ス、解剖術ノ発明ヲ論ス、「カタラクト」ノ諸件ヲ論ス、尋常ノ針術ヲ論ス、ヘルレイン(人名)ノ針術ヲ論ス、此ノ法ノ利益ヲ論ス、眼鰍衝ヲ論ス。
附録 図説:
図1 白色振揺カタラクト、
図2 乾涸質カタラクト第一種、
図3 乳汁質カタラクト第一種、
図4 乾涸質カタラクト第二種、石質カタラクト、
図5 乳汁質カタラクト第二種、
図6 乳汁質カタラクト第二種、
図7 黄色カタラクト、
図8 膜質カタラクト、
図9 ガラコマ、
図10 所謂セモシスナル危重ノ眼焮衝。
このように本書は白内障手術について詳述し、附録に図解を配したものであるが、図解は彩色眼病図(10図)を描き、理解しやすいように書かれている。この図解の部分は高野長英(陸奥国、水沢の人、名、譲、号、瑞皐、通称、長英、1804-1850)訳述の『眼目究理
篇』に所載の附録図説と同じであるが、『眼目究理篇』の図説には彩色眼病図はなく、唯説明文だけである。
『高野長英全集』第1巻医書部に所収されている『眼目究理篇』も同様で、同全集の編者高野長運氏はその解説文の中に「遺憾ながら別本たるべき図解書を逸している云々」と述べ、『眼目究理篇』に別の図解書が付いていたことが窺える。つまり『眼科治論』(越児物銀行本)と『眼目究理篇』(高野長英訳述)に所載の附録の図解は同じであることがわかる。『眼科治論』の内容が内障眼手術および鰍衝眼図解の訳述であるのに対し、『眼目究理篇』は眼の生理学を問答体の形式で記したもの(内山孝一博士)であるに拘らず、両書に同一の図解書が所載されていることの経緯は明らかでない。長英は天保初年より下獄迄の約10年間に『西説医原枢要』(内・外編)、『居家備要』(25巻)を初め医書を中心に30餘種、120餘冊に上る諸書を著訳しているが、『眼目究理篇』も彼のいわゆる尚歯会(当時の江戸、山の手進歩派青年グループの会)時代の活躍期に訳述されたものと思われる。
本書もこうした時代の翻訳書として18世紀末のヨーロッパにおける白内障眼手術事情の一端をわが国に紹介した眼科書の一つとみることができる。
主な文献 | ||
高野長運: | 高野長英全集第1巻 高野長英全集刊行会 岩手県 1930 | |
高野長運: | 高野長英全集第2巻 高野長英全集刊行会 岩手県 1930 | |
高野長運: | 高野長英伝 史誌出版社 1928高野長運:高野長英伝 岩波書店 東京 1943 | |
内山孝一: | 明治前医学史 2 日本生理学史 213 日本学術振興会 東京 1955 | |
小川剣三郎: | 稿本日本眼科小史 148吐鳳堂東京1904 | |
小川剣三郎: | 土生玄碩先生第百五十年記念会記事 119同会 東京 1916 | |
吉田二郎: | 杉田玄白・高野長英く日本教育家文庫〉第37巻北海出版 東京 1937 | |
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図1 『眼科治論』 巻頭 |
図2 図1 同書 図解(第3,4,5図)
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図3 図1同書 図解眼病図一覧 |
図4 図1同書 図解眼病図一覧 |
図5 『眼目究理篇』 (高野長英訳) |
図6 図4同書 附録「図説」とあるが、図はない。 (下にこのページの続きをカラーPDFにした画像リンクがあります。) |
1987年2月 (中泉・中泉・齋藤) |