研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。

この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

今回は 『眼目明鑑』です。


 

 

 『眼目明鑑』

 「世患眼者多而讐眼者寡讐眼者不寡学眼者寡学眼者不寡学眼書寡矣、余此不能無歎也」と。これは本書の叙文の一節であるが、識者杏林奄は真に眼の治療を行う良医を得るために、良書を欲して偏集したものと思
われる。

 『眼目明鑑』は元禄2年(1689)、杏林奄医生謹識とある叙を載せ、四條坊門通東洞院東江入町、水田甚左衛門より開板され、次いで18年後の宝永4年(1707)
に改正眼目明鑑となって、出雲寺和泉橡、江戸日本橋南一町目出店より再板された。この再板は外題箋が“改正"となっているが内容は全く元禄板と同じである。

 つまり元禄2年板は京都から出され、宝永板は江戸から出版されたことになる。元来この『眼目明鑑』は杏林奄医生の書として世によく知られているが、その叙によると、「今、此ノ眼目明鑑ノー書ハ近世 明ノ人ノ編スル所ニシテ…」とある所より、中国、明代の人が編集したものと察せられる。さらに叙には「余、試ミニ之ヲ用ウルニ方トシテ効ヲ得スト云ウコト無シ。(中略)終イニ書ヲ以テ全文ヲ諺解シテ吾ガ門ノ子弟二之ヲ授ク云々…」とあり、杏林奄が明人の編した眼科書を全文諺解、つまり漢語で書かれたものを国語を用いて解釈して自分の子弟達に授けたものと解される。一説に『眼目明鑑』は『周郁眼目伝』という漢文書が原書で、その和訳されたものではないかとの見方がある(小川剣三郎著『稿本日本眼科小史』)。

 このように本書は中国明代の人の編する眼科書を杏林奄医生が諺解となしたものと思われるが、直ちに彼がこれを出版したか否か不詳である。元禄2年板の巻末の後書によれば、本書は昔名医の家書で久しいこと秘蔵され人目にもふれず、人のためにもならなかったがたまたま書林の手に入ったので、版木屋に命じて版木の製作を依頼したところ、 日も経たずしてでき、 このような立派な真に眼疾を療する人の明鑑が刷り上ったという意味のことが識されている。この後書はその文面からして書林出雲寺和泉橡が元禄2年に開板の際刷り込んだものと考えられる。
本書は「眼疾ノ異証ヲ弁スルコト凡ソ六十有余、各々内外ノ薬法ヲ附シ、且ツ鍼灸、〇(金+歓)刀之法、修治、能毒之製畢ク撃ゲ詳カニ述テ都テ五帙云々」と、その叙に記述されているように、『眼目明鑑』4巻、『眼目明鑑薬名修治能毒』巻上・下よりなり、 藍色表紙、横長和綴本、印面は四周単辺匡郭、版心に上下黒口魚尾、書名、巻数、丁数を刷込み、本文は片仮名、漢字混りの口語文で記述されている。以下に各巻の目録を掲げる。

 

眼目明鑑目録
巻1  眼目総論 眼目配五臓論 風眼 病目 外瘴草膜 〇(目+蔑)膜 轟膜 蠅膜 分膜 輪月 星目 篠推疔目 上氣膜 付血道目 以上13膜。

巻2  内瘴 中瘴 虚眼 藤膜 縛膜 弱目 峯雲膜 附浮雲膜 簾膜 痒膜 椙膜 古血膜 血瞖膜打目 刺目 禾目 薄係膜 目蛭 目菌 光散膜 絲膜 毛膜 肉膜 閉膜 血眼膜 釣膜 以上25膜。

巻3  水膜 蟹眼膜 切膜 紅伽膜 白膜 赤膜 青膜 努肉 客雲膜 昂星 膜目 肉眼 目瘡 多泪眼 疼痛眼 眼腸 乱満膜 多血眼 目疣 疱瘡眼 疳眼 小児諸眼以上22膜。

巻4  雑治内療 雑治外療 枢要 洗薬 塗薬 吸裁 蒸薬 澄薬 腐膜法 通治 眼虫採〇(火+出) 悪血瀉下法 五眼見分 五臓剋障 陰陽眼論 寒熱辨義 寒補熱瀉 治不治辨論 四季摂養 肥度分別 附虚実 食物宜禁 内外通禁 灸法 内瘴鍼 切膜口伝 血詠切分 血眼取血法 温熱〇(金+歓)

眼目明鑑薬名修治能毒  上巻 金石部

石膏 明丹 代赭 爐岩 滑石 龍脳 射香 真珠 明礬 蓬砂 焼龍 辰砂 雀貝 生脳 蛇骨 白丁香 寒水石 茗石 龍石 石決明 貝歯 天石 赤石脂 牡蠣 白龍 麒麟血 青薬 角石 虎肉 白石脂 雀子 塩砂 黄丹 石鐘乳 熊膽 牛黄 草決 井石 根石 丹礬 水銀 光明朱 虎膽 軽粉 石燕 馬牙 硝 硝石 蛤石 金薄 以上49種。

眼目明鑑薬名修治能毒  下巻 草木部

香附子 濁活 羗活 芍薬 地黄 當皈 川芎 人参 黄茋 白朮 蒼朮 甘草 桔梗 藿香 白芷 附風 菊花 荊芥 薄苛 紫蘇 葛根 升麻 柴胡 前胡 黄苓 黄連 木香 牛膝 木通 藁本 大黄 桃仁 陳皮 肉桂 石斛 沈香 黄蘗 桑白 山梔 枳殻 蔓荊 茯苓 紅花 澤瀉 蘇木 半夏 以上46種。

 以上が本書の内容項目であるが、巻1から巻3には60余膜の眼証を挙げ、その病因や症状を説き、巻4には内外の薬法、鍼灸、〇(金+歓)刀(ヤキガネ)の法等を述べ、薬名修治能毒の巻においては薬品一種毎に異名、和名、気味、修治(製薬法を含む)、能毒(効用)および日本における産地名まで記している。この中、巻4には食物宣禁の種類

宜物: フキ、 クロゴマ、オオムギ、 クズノコ、カユ、 ホシウメ、ヤマノイモ、 ゴボウ、 クシガキ、 ヒユ、 ヒトモシ、ハス、 カラシ、 イモ、 ウコギ、フキノトウ、 カヤ、 クコ、サトウ、 ヒダイ、 イリコ、ハム、 クシアワビ、 ウルメ、 カツオ、 カイノルイ、ヤマドリ、ガン、サギ、 スズメ、アヂ、 コイ、ウサギ、キジ。

禁物: タケ、 カイソウ、モチ、メンルイ、 トウフ、サケ、 タケノコ、アブラ、 シャウキャウ、ニンニク、 ソバ、 ゴシン、アハ、 コンニャク、ニラ、 タテ、
ワラビ、 カワウソ、アユ、サメ、 フナ、 クロダイ、 タコ、 ケダモノ等が挙げられている。
また、内外通禁の項には婬犯、妄酒、湯遊、力業、音曲、行道、遠見、細工、讀書、光見、盤上、煙中、温熱食物、温服、思量、頭灸針不用等を掲げ、眼病には禁物であると戒めている。

 本書には手術についての詳しい記述はないが、内瘴については、内瘴には青黄赤白黒の5色があり、 5色より分けて36種の品があり、皆虚冷より起こる証であり、霞濁を生ずるものは皆内瘴の漸であるとしている。この時早く薬を用い、油断する時は種々に変じて長患いとなる。眼色黄赤黒などは治らないとしている。

 内瘴鍼の項には次のように述べている。「内瘴二針立ルコト先ソノ人ヲ朗日ニ向テ仰二臥シメ、頭目ヲ動サズシテ手ヲ以テ眼ヲ按へ、針先二唐墨ヲ塗テ白黒眼ノ境ヨリ鍼ヲ横ニシテ瞳子ノ通内 瘴ノ真中へ行テ二ヒネリシテ是ヲ抜バ膿少シ出ベシ、其時射香ヲ以テ針ノ跡二灌ギ必ズ眼ヲ閉ヂ塞ガシメ濃紺ノ絹ニテ眼目ヲ縛リー宿二及ブベシ、 ソノ糺縛スルコト弱カラズ強カラズシテ明日二至テ弛ベシ。十七日ノ間色ノ物ヲ観ベカラズ。或人イワク芘麻子ヲ用テ研テ針ノ跡ニヌレバー宿ヲ経テ膿自ラ出ルト。鍼ヲ立ルコト深サ五分二過ズ、口伝アリ云々」

 このように本書に述べられている病名、薬品、内瘴鍼術等は馬島流眼科の秘伝書に記述のものと大同小異で、何れも中国明代の眼科書に準拠して編述されていることがわかる。中世より近世にかけての眼科医術の発達は口授、 口伝の方法で思うにまかせず、 とかく阻害されがちであったが、 こうした時代に本書が日本において日本人自身によって、眼科専門書的体裁を備えて初めて公刊されたことは極めて大きな意義がある。

 

 



 


 

 

   
                 図1 改正眼目明鑑 外装



 

 

 
    図2 宝永4年改正眼目明鑑開板後書

 

 

主な参考文献    

馬島大智坊: 馬島流眼薬書 永禄12年写、1569
杏林奄医生: 眼目明鑑 元禄2年刊、1689
杏林奄医生: 眼目明鑑 宝永4年刊、1707
河本重次郎: 日本眼科の由来及日本に於ける商学』)本源につき 日眼 4:184、1900
小川剣三郎: 稿本日本眼科小史 76、吐鳳堂、東京、1904
富士川 游: 日本医学史 311、 日新書院、東京、1943
福島 義一: 日本眼科全書 1 日本眼科史 82、金原出版、東京、1954
日本学士院: 明治前日本医学史4中泉行正稿 日本眼科史 264、 日本学術振興会、東京、1964

 

 

1987年5月 (中泉・中泉・齋藤)