『眼科撰要』 西洋眼科輸入後の日本の眼科は従来の漢方から蘭方へ次第に移行していったが、その漢方眼科を諦めきれず、漢方眼科に蘭方眼科を採り入れるもの、あるいは蘭方眼科に漢方眼科を補うもの、 また、その折衷眼科流を行うものもでて、眼科書においてもそうした傾向 筆者の手許にある『眼科撰要』によれば、その末尾に“伊貫国 明々堂蔵 文政九戊歳五月刻成"と識されているが、大槻茂槙の序、北越、神保恭の跛は文政5年(1822)、南紀の竹中温の序や樋口子星の自序は、文政6年(1823)となっており、序跋が書かれてから3、4年して本書は刊行されたことになる(文政9年刊)。 本書は、その自序に「予夙齢ヨリ苦辛シテ四十餘歳二及デ始テ其奥ヲ究メタリ。白内障ハ老若トモニ證ニヨリテ日数違ヘドモ、凡百日餘ニシテハ蓋ク治ス、予其要ヲ詳カニ述べ盡サント欲スレドモ譬バ紙舗ニテ数品ノ紙ヲ観テカヘリ見タル如ク、委シクハ口ニモ筆ニ 本書は上、中、下の3巻よりなり、序(除自序)、跛以外は片仮名・漢字混りの和文で記述され、内容は『眼科新書』(杉田立卿訳述)に所載の眼球解剖図(4図)と、彩色眼病図、鍼穴図および手術器機図(25図)等を掲げ、漢方眼科に蘭方眼科の知識を採り入れて述べたものとみることができ、その目録を挙げると以下の通りである。 眼科撰要 巻之上 眼球解割図 『眼科撰要』巻之中 『眼科撰要』 巻之下 以上のように巻之上においては眼病理、巻之中には薬方、薬能修治、巻之下では白内障手術について梢々詳しく述べている。薬方には羗活湯等約60種類の薬種処方を挙げ、薬能修治には真珠等各種薬物の主治、用法、産地、拵え方を記述している。巻之下においては ・鍼を刺す10日前より房事を禁ず 「北水先生伊賀之人也、先生嘗行技於浪華以親老還郷治療之暇乃輯録祖伝之法及己所発明効験者以成一編命日眼科撰要」 このように本書は杉田立卿が訳述した『眼科新書』の刊行(文政12年)とシーボールト渡来(文政6年)の時期との間に著されたことになり、漢方眼科によって培われた著者の知識にさらに蘭方眼科の新知識を採り入れて著した眼科書とみることができる。
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図1 眼科撰要自序 |
図2 図1同書所載の眼球解剖図 |
図3 図1同書所載の眼球解剖図 |
図4 図1同書所載の眼病図(星翳) |
図5 図1同書所載の眼病図(ソコヒ) 何故かここには説明を欠く |
1987年7月 (中泉・中泉・齋藤)