研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。

この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

今回は 『続 眼科錦嚢』(2) です。


続眼科錦嚢(2)

 次に『続眼科錦嚢』は「前篇二漏レタル處ノ奇病難治ノ證ヲ具載シ、其治療法術ヲ考究ス、及ビ先生門中用ユル處ノ針刀ノ類工夫ヲ凝シテ新製ス、一々其図ヲ載セテ秘蘊ヲ著ス」とあり、その上巻には普一の自説または経験奇談を掲げ、その下巻には眼科用の器械を図示し、その図解を附記している。

 『続眼科錦嚢』は2巻2冊(26.7×17.5cm)よりなり、書誌的には『眼科錦嚢』と同様で、各巻々頭に
東武 普一本荘俊篤士雅著
高遠 藤田蟄蚊伯壽
越前 舟岡知衡徳夫 令校
京師 北畠良謙吉
とあり、天保8年(丁酉晩夏)須原屋源助発兌となっている。以下其内容を標目によってみると次の通りである。

 『続眼科錦嚢』標目
眼科古今無正典論
本朝眼科襲弊論
西洋窮理無確徴論 附蘭学正誤
眼目至大之論
雙瞳三瞳之論
悉鳩答莨宕之説
胎障眼発明
奇障怪病之説
眼胞結石瘤証、眼目翻花証、夜光眼証、晝盲眼証、陰陽擬似証、銀屑散漫証、
無痛 角膜破裂証、大怒暴盲証、酔中暴盲証、冒寒暴盲証、小眥漏証、衰弱眼証、
二患者治験
附録1巻
眼科療具図幷図解
内翳鍼刺図幷図解

 眼科療具図は写真図版(図4~ 6)に掲げた様に当時の眼科用具を知る上で興味をひくものであるが、次に本書に掲げられた用具の名称を図番に従って抄記すると以下の通りである。

1.搭頭枕(ハリマクラ)遮風鏡(ハコメガネ)
2.滴水器
3.洗眼器とその施用図
4.蒸眼器とその施用図
5.浴眼器とその施用図
6.貯汁袋(チリアラヒ)
7.小水銃(ミヅテッポウ)顕微鏡(ムシメガネ)
8.温金
9.點薬匙(メグスリサジ)點薬管(フキクダ)測瘡子(サグリ)
10.鑷子(ケヌキ)
11.薬箇(スヒダマ)三稜針 小鋒鍼
12.横裁刀(ヒキガタナ)、披鍼(ランセッタ)
13.竹夾 銅夾 方鑷子(カクケビキ)湾頭鋏(コテバサミ)鍼(ハリ)
14.按定環(カンワ)
15.小烙鉄(ヤキカネ)
16.烙鉄(ヤキゴテ)烙鉄施用図
17.鈎(カケハリ)直剪刀(ニギリバサミ)曲鋏(マガリバサミ)小湾頭鋏(コテハサミ)
18.尖鋭刀 偏刃刀
19.円鋒鍼 三稜鋒 曲頭鋒 銀造円鍼 三尖鍼 鍼刺内翳図(1-4)。

 これらの図は淡彩色の精巧図で、当時の本庄普一流眼科の療具の全般を知ることができる。模写図は19図、通計48種を数え、図解には器械の製作、用法を詳しく述べ、新古作用の便不便を細かく説いている。また、療具は崎陽製が佳いが出来不出来がある故よく撰
択すべきことをも述べている。続篇下巻には“眼目十禁三戒"すなわち淫、酒、浴、力、行、火、風、細、辛、自、飽食、過房、耽酒を挙げて眼を患う者のための禁戒としている。

 『眼科錦嚢』の見方は種々であるが、中目標山(1808~1854)は次の様に評している。
「本庄普一著ス處眼科錦嚢アリ、世二行ハル来テ之ヲ見ルニ論説粗々理二似タリト云モ其非甚ダ多シ、且内障手術等二至テハ更二秘訣アル事ヲシラズ、只其手法ヲ謬聞シ既二図解ヲ著ス、之二依テ医俗妄リニ患者二説テ其術ヲ施ス、又之二依テ天下ノ患者多クハ誤治シ、徒ラニ暗夜ノ極二至ラシムルモノハ普一カ罸(ばつ)ナリ。普一固ヨリ眼科ニ非ラス、知ラズカレカ術中二陥ルトキハ古人ノ所謂医セズンバ瞎セサルノ罰ヲ免ルルヲ得ズ、故二其誤リヲ訂(たださ)ンガタメニ別二錦嚢正誤ヲ著シ後覧二具ルノミ」(古今精選目病眞論4巻17-185)。

 しかし本書を著した普一の頭脳には『解体新書』に示された眼の解剖、漢法の眼科および『眼科新書』の西洋眼科が深く刻み込まれていたのであろうか、学説、手術は折衷家、蘭法家の態度で詳論し、治療に至っては漢説を以って実施した。それ故その所説は漢洋眼科間の橋梁をなし、本書は徳川時代に日本人自身の著作による眼科書として日本眼科史上に一大革新の基礎を拓いたものといわれる所以であろう。

 この様に『正・続 眼科錦嚢』は本庄普一の独創的著述として、 また日本の眼科史上最も大成された漢蘭折衷眼科書として広く読まれたものと思われるが著者本庄普一の面影については不明な部分も多い。

 本庄普一(俊篤、字、士雅、~ 1846)は埼玉県本庄宿(現本庄市)の本庄正俊(字、善三、号、藤花楼)の次男に生れ(生年月日不詳)、弱年にして江戸に出て程田(保土田)国道子晥(江戸の人、沼津藩医、酔蘭?)について内科学を学んだ。その門人として修業中、眼病(実質炎?)に罹って、江戸の眼科諸家の診察を受けたが治癒せず、たまたま小出某の診察を受け、100日ほどで癒った。普一はそれ以後翻然心を眼科に向けたといわれ、眼科を何人に学んだのか明らかでなく、独学専修の道を歩んだものかと推察される。実地研究に
重きをおく普一はその後、文政初年頃から長崎に遊学し、 シーボルト等諸家に接し眼科新知識を学び、 また、京都にも逗留して著述と治療にいそしんだと伝えられている。文政10年(1827)頃郷里本庄宿へ帰り開業し、およそ19年ほどの歳月が流れた。この間に幾度か
転居しているが、天保2年に『眼科錦嚢』を発刊し、同8年に『続眼科錦嚢』を刊行した。弘化3年(1846)に本庄宿に大火があつて普一の一家も罹災し、児玉町、鍛治町へ移転した。しかし、その後間もなく弘化3年11月4日病にて歿した。(三田弘博士)その後、昭和46年2月28日、児玉町教育委員会による本庄普一先生の墓の改葬が行われたが石瓶の中からは脛骨、頭蓋骨、小さな陶磁器の薄手の酒盃、小さな硯、小さな水差し等の遺品が発掘されたといわれる。これらの遺品は近くの塙保巳一記念館に大切に保管展示されているときく。墓は児玉町八幡山字雉子ケ岡の浄眼寺にあるといわれる(桑原安治博士)。

 『正・続 眼科錦嚢』は皇漢医学叢書第10冊(大新書局印行、中華民国61年重版)に所載。
本庄普一著書として本書の他、『居郷劇談』(天保12年)、『天均堂脈論』(天保15年刊)、『萍跡叢話初編』(3巻)、『傷寒論管見』等がある。

 

 

 

 

 

図3 『続眼科錦嚢』(天保8年)扉

 

 



 

 

図4 滴水器と洗眼器(図3同書 下巻所載)

 

 

 

図5 洗眼器施用図 (図3同書 下巻所載)


 

 

図6 烙鉄とその施用図 (図3同書 下巻所載)


 

                                                                1987年9月 (中泉・中泉・齋藤)