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今回は 『シュルツェ眼病論』(仮称)です。
 シュルツェ眼病論(仮称)

 

 明治7年(1874)5月に第一大学区医学校が東京医学校(東京大学医学部の前身)と改称され、その12月にシュルツェ(Emil August Wilhelm Sehultze)が同校の外科教師として就任した。

シュルツェは1840年にベルリンに生れ、ベルリン陸軍軍医学校を1863年に卒業し、ドクトルとなる。1870年から1871年に陸軍一等軍医として普仏戦争に従軍、1871年から1872年に英国およびオランダに留学し、特にリスターに就いて防腐法を学び、1872年ベルリンに戻り、 シヤリテ病院、パルテレーベンの第一助手となり、軍医のエリートコースを順調に歩んだ。1874年東京医学校の外科系教師となる。1877年(11月?)一旦帰国したが、翌年7月より1881年(明治14)6月まで再雇傭となった。1881年帰国して二等軍医正に進み、ステッチンの歩兵第二連隊附軍医を命ぜられた。1883年軍を辞し、ステッチン市立病院長となる。1900年フライブルグに隠退した。その後、一時当地の陸軍病院に勤めた(1914~1918)が1924年フライブルグで肺炎のため死去した。

 東京医学校におけるシュルツェの講義は外科学に眼科学を兼ねて行われ、 1週2時間乃至4時間ほど眼科学を講じた。また、臨床講義を数時間行った。当時の学科課程表によると、1、2等本科生を対象の学科は眼科学、眼病論、眼科臨床講義等が時間割にあつたよう
である。

 掲出の『眼病論』には巻頭に「東京医学校教師独逸国医官康児津氏口授、大日本帝国医官三瀦謙三訳」となっており、シュルツェの講義を三瀦謙三(1852~1894)が翻訳したものと思われる。シュルツェが東京医学校で講義を始めたのが明治7年で、三瀦謙三が同校を卒業した年が明治9年(1876)であり、 この間のシュルツェの口授が筆記翻訳されたものと思われる。

 本書は9巻14章よりなつているが、各章を目次によって抄記すると以下の如くである。
眼病論
巻1
第1章  眼瞼諸病論
眼瞼皮膚病 眼瞼筋層病
睫毛病
睫毛脂腺病、眼瞼縁間部病 迷貌誤腺病
眼瞼位置異常
眼瞼閉塞病:
眼瞼腫瘍
第2章 涙液諸器病論
涙腺病 涙点脱位病 小涙管傷風病
涙嚢諸病 涙嚢管狭窄病
巻2
第3章 結膜諸病論
結膜充血 単性結膜炎
膿漏性結膜炎 実布姪里窒性結膜炎
水疱状結膜炎
顆粒状結膜炎
転期症 軍陣結膜炎 結膜痘着 結膜血液漏出症 結膜脂肪疹 結膜腫瘍
結膜翼状贅片症 眼球内異物鼠入症
巻3 視器官能、検査法
視界検査 視界変化論 視界狭小論 周縁性視界狭小論
中心性暗点症 半視症 直当視官部作用検査 中心視力検査
第4章 角膜病論
角膜実質論 角膜表層炎
角膜中層炎
角膜深層炎
化膿性角膜炎
角膜潰瘍 角膜騎
角膜葡萄腫
角膜膨脹症 角膜平療症
角膜腫瘍
老人環
角膜損傷
巻4
第5章 虹彩病論
虹彩炎
虹彩機能変性 瞳孔散大症 瞳孔縮小症 虹彩震盪症
瞳孔開闘頻促症 虹彩発生腫物 虹彩生来変性
巻5
第6章 水晶体病論
水晶体膜嚢病 水晶体実質病 局限内障眼蔓延性水晶体
内障眼 全内障
巻6
第7章 毛様突起及脈絡膜諸病論
毛様体突起炎 脈絡膜炎 膿潰性脈絡膜炎 脈絡膜結挟病
脈絡膜剥離病 脈絡膜出血 脈絡膜分裂 脈絡膜缺痕
脈絡膜中骨質新生及石灰質 脈絡膜腫瘍
巻7
第8章 交感性眼鰍衝
後輩膜脈絡膜炎 グラウコーム:特発グラウコーム
第9章 硝子体諸病
硝子体融解症 硝子体雲騎症第10章 網膜諸病
単純性網膜炎 卒中性網膜炎 徹毒性網膜炎 蛋白尿性
網膜炎 白血症網膜炎 昼盲症網膜炎 色素症網膜炎
網膜出血 網膜象』離 網膜神経線維縦髄輪ヲ含育スル者
網膜中心動脈ノヱンホリア 網膜腫
巻8
第11章 視神経諸病
視神経炎 眼球後際視神経炎 視神経消耗的変質 又、
視神経消削症 視神経着色症
第12章 視器官能的障碍
弱視及黒障眼
夜盲 又、網膜感覚痴鈍 網膜知覚鈍 単純弱視 片視
黒障眼 尿毒症黒障眼 吐血後黒障眼 視野ノ断続症
色盲 又『グルトン』氏病、
第13章 眼富内諸病
眼害内結織炎
貌設土氏眼球突出症第14章 眼筋諸病
眼運動障碍
眼瞼諸筋又、眼球諸筋
巻9
手術論
慨瞳孔術:虹彩切除法 虹彩裁開法1虹彩粕裁法 虹彩
結紫法 イリトリーセ 虹彩断裂
内障眼手術:水晶嚢開切法 内障眼摘出法
手術ノ順次五種、施術間偶発スル所ノ障害施行後措置、
後発内障眼ノ手術 眼鏡用法

 このように本書は、眼瞼、涙液、結膜、角膜、虹彩、水晶体、脈絡膜、交感性眼炎、硝子体、網膜、視神経、視器官能障害、眼窩、眼筋等14章の諸病論(原因、治法、予後)および手術論を記述したものである。

 明治4年(1871)以降に東京医学校で行われた外国人教師の講義は同校発行の『医科全書』(明治8年9月出版)に収載されているが、本書はシュルツェ氏著として、その眼科篇(明治13年出版)にのっている。本書は明治10年前後の東京医学校における眼科学の講
義内容を窺うよき資料であるとともに、明治初期のドイツ眼科採用における教師講義筆記として注目される。


1988年10月 中泉、中泉、斎藤

 

 

  主な参考文献  
  中泉行正: 東京帝国大学医科大学眼科教室病室略史, 日眼17,159,東京,1913
  入沢達吉: 明治初年来朝の独逸人教師と其写真 中外医事新報,N01208,219,東京,1934
  東京大学医学部沿革略史 東京,1923
  小関恒雄、北村智明

明治初期御雇医学講師シュルツェの富士登山.日本医事新報、No.3081. 62, 東京、1932

  東京帝国大学 東京帝国大学五十年史(上)東京,1932
  東京大学医学部 東京大学医学部百年史 東京,1967

 

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図1 シュルツェ眼科書(眼病論)

シュルツェ氏口授 三潴謙三訳 明治写

 

 

         
  図2 医科全書眼科篇巻3表紙 明治13年出版  

 

   
  図3 図2 同書巻頭