研医会通信  171号 

 2019.7.24
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研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。
この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

今回は 『眼科一家言』 です。

『眼科一家言』

文化12年(1815)に杉田立卿(1786~1845)が訳述した『和蘭眼科新書』などが出版され、わが国の眼科は次第に蘭方眼科を採り入れるようになり、文政6年(1823)にシーボルト (Philipp Franz von Siebold、1796~1866)が来日して実地医療が行われるようになってからは、漢方眼科から蘭方眼科への移行がにわかに進められるようになった。

 

こうした背景にあって、高良齋(1799~1846)の『西説眼科必読』などの訳述をはじめ、天保年代に入って本庄普― (?~ 1846)の『眼科錦嚢』『続眼科錦嚢』、馬島円如(1802~1855)の『眼科集要折衷大全』等々の漢蘭折衷眼科書が次々と著された。こうした時代、時を同じくして著されたのが本書、『眼科一家言』である。この本は漢方眼科の不備なところを蘭方眼科で補足し、いわゆる和漢蘭折衷眼科書として記述された、いわば当時としては稀にみる眼科臨床治験録ともみられるものなので、本書の概要を紹介する。

 

本書は、上田公鼎(名を體、号を椿年。1802~1841)の治験と論説を門人安田玉海(通称敬太郎、字定之、号公齋。1818~1843)が、かねて上田公鼎の門弟として学んだ折、講究討論したこと、奇効目撃したところを編述しておいたもので、安田玉海が天保13年(1842) に『眼科一家言』と題して刊行した。

 

写真の『眼科一家言』は上下巻全1冊、60葉(26×18 cm)からなるが、清福堂蔵版天保13年の刊本を底本とした写本(千葉大所蔵)を複写したものである。

 

本書の構成は、 この写本によると、 まず序文が次のように掲げられている。

天保13年正月 仁科幹

天保11年仲冬日 豊後 海士野懿子恭

天保8年2月 天草 上田齢

天保8年2月 安田敬

次いで

眼球略説

眼球略図

図1: 眉、睫毛、瞼。

図2: 涙管、涙嚢、小膜。

図3: 視神経、脳髄。

図4: 角膜、葡萄膜、虹彩。

図5: 水様液、水晶液、硝子液。

図6: 脉絡膜、剛膜、葡萄膜、瞳孔、虹彩

次に本文(上巻17葉、下巻27葉)、最後に友人上田忠の後序と続く。

 

上巻には32例、下巻には37例の患者治験が記述され、また治験例毎に論説を併記している。治験例を一瞥すると表の通りである。

 

これらの治験例は玉海が公鼎に学んだおよそ1か年(天保7年秋から1年間)と推定される間の治験の一部と考えられるが、治験方法は中国古医方を軸としていながらも西欧医方(オランダ医方)を多く採り入れている。ことに手術分野においては鍼術が行われたようである。臨床上の発明としては、経験によって瞳孔を截開(仮瞳孔術)したこと、裂孔眼鏡の製作、牙角を材料に義眼を造ることなどが挙げられているが、内翳鍼術の直横斜の三法、截開瞳孔術についてはその秘法をことごとく玉海は公鼎より教えられたようである。当時わが国の眼科においては仮瞳孔術を行える者は、土生玄碩(江戸)、三井元濡(大阪)、高良齋(徳島、大阪)および上田公鼎(天草)のみであったと伝えられるが、公鼎の門では、鍼術を行うに、漢人が春秋、蘭人が夏冬を選ぶのに対し、春夏秋冬を問わなかつたと記されている。また、本書には義眼の製法についても、

「儀眼法始於紅夷今時博其法製造之者多矣 大抵以硝子或金銀製之我門製以牙角甚佳然委之于治而可也云々」

とあり、公鼎の門においては牙角を材料に天保年間に義眼を製作していたものと思われる。また、本書の巻頭には“眼球略説"が掲げられ、「…能欲其術之巧則必先明内景為要予瘻解剖実物以明眼中諸具今聊記其大概焉」と述べて、良い治療を行うにはまず眼球内部その物をよく知らねばならないとして、眼球の解剖を力説し、前記のような眼球略図6箇を掲げ解説している。なお、本書には水牛製の眼球模型一式が附録として備えられていたといわれているが、本書内にはそのことに関しては記載されていない。

 

本書はこのように治験例を中心に記述された眼科書であるが、その著者、上田公鼎は肥後国天草郡高浜村、禮右衛門の二男に生まれた。はじめ古医方(傷寒論)を学び、かたわら外科にも精通し、最終的には眼科を専門とした。

 

天保11年(1840)、開業を目的に、京都に上る途中、備中国都窪郡酒津村(現:岡山県都窪郡)の門人、安田玉海を訪ねて仮寓したが、たまたま流行した天然痘にかかり、天保11年6月5日病死した。

享年40歳であったという。公鼎は長崎に修業のためでかけたとも想像されているが、彼が師事した人が誰であったのか明らかではない。公鼎は眼病を治すに当り、常に眼病と全身病との関係を重視したという。公鼎の著書には本書の外、『上田家眼目篇』『眼科明鏡』『眼科淫渭』などが知られている。この公鼎の経験と術を『眼科一家言』にまとめて、 これを伝えたのが門人の安田玉海と公鼎の養う子、及淵である。安田玉海は安田孝節(通称大造、天保8年7月1日歿、享年43歳)の子として備中国都窪郡酒津村に生まれ、天保7年(1886)の秋、19歳の時、父孝節とともに肥後国天草に上田公鼎を訪れて、その弟子となる。公鼎について眼科を修業、内翳鍼術直横斜の三法、截開瞳孔術などの秘術をことごとく伝授され、 1年余にして郷里に帰り医業に働み、公鼎より修得したものを編し、天保13年(1842)正月『眼科一家言』と題して刊行した。しかし玉海は翌天保14年(1843)8月25日、26歳の若さで病歿した。また、上田及淵は文政元年(1818)、平井恭輔の第6子として肥後国天草郡志岐(現熊本県天草郡苓北町志岐)に生まれた。17歳になって上田公鼎に養われ、その子となる。京都、大阪に遊学し、池原某氏について蘭方眼科を学ぶ。51歳の頃失明したが、なお国学に精通し、明治12年(1879)6月13日、61歳にて歿した (小川剣二郎氏による) 。

 

 

治験例表(上巻)

性別等

年齢

病態等

性別等

年齢

病態等

婦人

21

晩盲眼

婦人

不明

眼球陥凹

男子

13

眼目曇闇

農夫某児

5

眼瞼〇腫

男子

不明

痛痒無限

婦人

不明

烏晴曇濁

男子

不明

打撲(眼目)

男子

不明

〇腫眼

舟人

不明

晩盲眼

農夫

48

睫毛乱生

婦人

40

睫毛内刺

漁夫

不明

両眼曇濁

沙門

不明

翅翳

婦人

20

小瘡

婦人

不明

下瞼膿瘍

男子

不明

烏晴曇闇翳

婦人

21

眼瞼赤爛

男子

不明

眼目赤腫

男子

不明

眼〇腫

漁夫

40

両眼腫

乞食尼

不明

重睫内刺―盲

婦人

不明

赤腫疼痛

小児

不明

眼爛生翳

男子

30

眼瞼裏麦粒

魚店某妻

不明

結毒

男子

30

両眼〇腫

漁夫

20

鳥晴全曇闇

男子

不明

疫眼

婦人

不明

黒花蠅翅

男子

30

倒睫戟刺

婦人

24

瞼爛虱生

男子

不明

白點眼

〇=火+欣〇=火+欣

 

治験例表(下巻)

性別等

年齢

病態等

性別等

年齢

病態等

農夫

不明

黒障初発

婦人

不明

痘患眼瞼腫

婦人

不明

眼爛翳

瞽者

不明

失明27年余

舟人

30

昏暗黒花

瞽者

不明

失明27年余

鍛冶

不明

渋痛

村妓

20

内翳正熱

女児

眼目赤腫

男子

22

不詳

聾者

不明

角膜曇濁

男子

不明

失明18年余

富優

22

瞳孔濶大

婦人

不明

内翳眼

男子

不明

翅翳蔓生

15

男子

30

毒蟲眼瞼螫傷

瞽者

41

失明4年余

男子

30

鳥睛全曇闇

男子

55

失明

19

結毒

男子

22

不詳

農夫

20

両眼赤腫疼痛

瞽者

不明

銀翳烏晴蔽

老翁

80

木屑飛来

農夫

不明

内翳眼

婦人

不明

陶器缺片

瞽者

不明

不詳

婦人

20

鳥晴曇濁

男子

不明

内翳眼

男子

12

麥芒眼入

不明

真珠様厚翳

男子

30

白膜紫黒色帯

不明

瑪瑙様厚翳

男子

不明

白膜・角膜界肉瘤

男子

不明

内翳眼

男子

不明

眼刺傷

 

 

 

 

■主な参考文献 ■■

小川劍三郎: 稿本日本眼科小史 190、吐鳳堂、東京、1904

小川劍三郎: 上田公鼎著、安田玉海編、眼科一家言. 眼臨6 : 255、1911

小川劍三郎: 上田及淵先生伝. 実眼1:478、 1917

小川劍三郎: 上田及淵先生伝. 実眼2:48、 1918

小川劍三郎: 安田玉海先生伝. 実眼2:115、 1918

小川劍三郎: 日本ニ於ケル眼球模型、実眼11:607、 1928

富士川游: 日本医学史 458、 日新書院、東京、 1943

石田憲吾: 上田公鼎の『眼科一家言』の眼解剖記述に就て. 眼紀 4: 383、 1953

福島義一: 日本眼科全書1 . 136、 金原出版、 東京、 1954

中泉行正: 日本眼科史. 日本学士院(編):明治前日本医学史4. 390、日本学士院、 東京、 1964

 


 

 

 

       図1:  眼科一家言 扉

 

     図2: 眼球略説に所載の図  

 

 

 

 

  斎藤仁男  中泉行信  中泉行史  1995