研医会図書館 2019春 展示会解説 

 2019.6.12
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2019年科学技術週間展示会 「長崎に関わる本」―輸入西洋科学書と翻訳書―

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 1~7  長崎大学名誉教授  相川忠臣 (あいうえお順)
 11~16  九州大学名誉教授、研医会研究員  ウォルフガング・ミヒェル  
 17~22  住友史料館主席研究員  海原 亮  
 23~26  熊本県立大学准教授  大島明秀  
 27~39  横浜薬科大学教授  梶 輝行  

      11~16  解説文執筆
 
九州大学名誉教授、研医会研究員  ウォルフガング・ミヒェル

 

 

11.トーマス・バルトリン『古今の観察に基づく解剖学』(初版)

Thomae Bartholini Anatome ex Omnium Veterum Recentiorumque Observationibus. Imprimis institutionibus b. m. parentis Caspari Bartholini ad circulationem Harvejanam et vasa lymphatica. Quartum renovata. Cum Iconibus novis et Indicibus. Lugduni Batavorum: Ex Officina Hackiana, 1673.

 

デンマーク人医師・数学者・神学者トーマス・バルトリン(Thomas Bartholin, 1616–1680は多くの学者を輩出した家系に生まれた。父カスパー・バルトリン(Caspar Bartholin, 1585–1629)の著書『Anatomicae Institutiones Corporis Humani(人体解剖学教程)』は日本にも伝わり『カスパル解剖書』として『解体新書』執筆の際に参照されている。「バルトリン腺」の発見で知られるのは、トーマスの息子で祖父と同名のカスパー・バルトリン(Caspar Bartholin, 16551738)である。

当時、デンマーク王の許可のもとで多くの死体解剖が行われたが、トーマス・バルトリンは胸管などを発見し、人間のリンパ系の研究で医学史に名を残した。また、1673年にはデンマーク初の学術雑誌『Acta medica et philosophica hafniensia(コペンハーゲンの医学・哲学紀要)』を創刊している。

ライデンで出版された本書は父カスパーの研究を踏まえながら、身体の構造、内臓、血管系、リンパ系などについて論じたものである。「observationes(観察)」が重要な意味を持つ本書の扉絵には通常の死体解剖の光景ではなく、生きているが如き人体を見ながら議論するギリシャの学者風の人物が描かれている。

12.ローレンツ・ハイスター『外科学』(第2版)

D. Laurentii Heisters [...] Chirurgie, in welcher Alles, was zur Wund-Artzney gehöret, nach der neuesten und besten Art gründlich abgehandelt und in vielen Kupffer-Tafeln die neu-erfundene und dienlichste Instrumenten, nebst den bequemsten Handgriffen der chirurgischen Operationen und Bandagen deutlich vorgestellet werden. Nürnberg: Johann Hoffmanns seel. Erben, 1724.

 

フランクフルト・アム・マインに生まれたローレンツ・ハイスター(Lorenz Heister, 1683–1758)は、ドイツとオランダの大学で幅広く医学を学び、18世紀初頭のスペイン継承戦争などで野戦外科医としても経験を積んだ外科医解剖学者植物学者である。

1711年からドイツのアルトドルフ大学で解剖学教授、1722年からヘルムシュテット大学で解剖学と外科学の教授を務めた。1715年にドイツ国立科学アカデミー・レオポルディーナ、1730年にイギリス王立協会の会員に選出されている。

1719年に発表された『Chirurgie(外科学・外科術)』は大学における外科学の地位を著しく高め、ラテン語、フランス語、英語などに訳された。絵の才能にも恵まれたハイスターは銅版彫刻の技術を習得し、同書の図版は彼自身が作成したとされている。ハイスターが考案した医科器械のうち「ハイステル開口器」は現在でも使用されている。胆嚢管の螺旋状の襞(ひだ)「ハイステル弁」やボロボロノキ科の属名「Heisteria」もハイスターに由来する。

日本に伝わった蘭訳書『Heelkondige onderwijzingen(外科学教育)』(1741年刊)や『Kort begrip der heelkonst(外科学概要)』(1764年刊)は、蘭学者に大きな影響を与え、長崎のオランダ商館の大通詞吉雄耕牛による抄訳が遊学者を通じて広く普及した。また、杉田玄白、大槻玄沢、 越邑徳基、羽栗長隠、桐亭社中が作成した『瘍医新書』、『瘍科精選図解』、『瘍科精撰図符』、『恊乙斯的盧産論』などの書によって「ヘイステル」の名は刺烏冷斯回私的尓、回斯篤児、恊乙斯的盧、歇伊私的児などの表記で広まった。

13.ピエール・マーリン『仏蘭辞典』(第6版)

 

Pierre Marin: Dictionnaire François et Hollandois, composé sur le dictionnaire de l'Académie Françoise et d'après les meilleurs auteurs qui ont écrit dans les deux langues. Amsterdam: Changuion, 1741.

 

ピエール・マーリン(Pierre/Pieter Marin, 1667頃–1718)はフランスのラフェルテ(La Ferté-sous-Jouarre)に生まれ、アムステルダムに移住して語学教師を務めながら、仏蘭・蘭仏辞典、フランス語文法書などの刊行によって、その名を知られるようになった。

フランス語の規範を提示する『アカデミー・フランセーズ辞典』およびフランスとオランダの優れた書物に準拠した『Dictionnaire François et Hollandois(仏蘭辞典)』の初版は1710年に刊行され、オランダにおける国語辞典の成立に大きな影響を与えた。

『仏蘭辞典』は宝暦4年(1754)に長崎に伝わり、その後に届いたフランソワ・ハルマ(François Halma)の『蘭仏辞書』とともに蘭学者たちに愛用された。オランダ商館の大通詞西善三郎(?–1768)は本書を元に蘭日辞書の編纂に着手したが、完成に至らぬまま病に倒れ54歳で没した。

 

 

14.ジャン・パルファン『外科用人体解剖学』(第2版)

Heelkonstige ontleeding van ’s Menschen Lighaam, waar in de zelfstandigheyd, plaats, grootte, gedaante, getal, maaksel, samenhang, en het gebruyk der deelen, teffens met hunne ziektens en de geneezingwyze klaar en onderscheydentlyk beschreven worden [...] door Johan Palfyn, gezwoore heelmeester, ontleeder en voorlezer in de handwerkende Heelkunde binnen Gent. Te Leyden: By Jan en Hendrik vander Deyster, 1733.

 

フランドル地方のコルトレイク(Kortrijk)出身のジャン・パルファン(Jan/Jean/Johan Palfijn, 16501730は理髪外科医の父の教えを受け、ヘントGentおよびパリで腕を磨き、1675年頃に故郷に戻ったが、人間の骨格標本の所持が問題視され、故郷を離れてイーペル(Iper/Ypresで開業した。1695年に再びヘントに移り住み、1708年から地元の医学校(Heelkundige School)で骨学と外科学を教えた。彼は産婦人科においても評価されていた。

1701年にフラマン語で発表された『Nuova Osteologia(新しい骨学)』は、フランス語やイタリア語に翻訳された。1710年に出版された『Anatomia Chirurgica(外科解剖学)』も高い評価を得た。1718年にライデンで刊行された『Heelkonstige ontleeding van ’s menschen lighaam(外科用人体解剖学)』は日本にも伝わり、『パルヘイン解体書』の書名で『解体新書』に参考文献として記載されている。

 

 

15.『アンブロワーズ・パレ全集』(第7版)

Les Oeuvres d'Ambroise Paré conseiller, et premier Chirurgien du Roy [...] Divises en vingt-neuf livres ; Avec les figures et portraicts, tant de l'Anatomie que des instruments de Chirurgie, & de plusieurs Monstres. Septiesme Edition. Paris: Buon, 1614.

 

「近代外科の父」と称えられるアンブロワーズ・パレ(Ambroise Paré, 15101590)は理髪外科医の見習いを経て、1529年からパリの市立病院でさらに3年間修業を積んだ。その後、フランス軍のトリノ遠征で軍医として銃創の治療経験を重ね、様々な画期的な治療法を考案して広く注目を集めた。大学教育を受けていないにもかかわらず、パリ大学の有名なサン・コム学院(Collège de Saint Côme)の会員に推挙され、1552年からアンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の侍医を歴任し、1562 年に勃発したユグノー戦争ではカトリック陣営の軍医を務めた。パレが残した「Je le pansai, Dieu le guérit(我包帯す、神、癒し賜う)」 という有名な言葉には彼の謙虚な姿勢が表れている。

1585年に出版された『パレ全集』は17世紀まで繰り返し再版され、ドイツ語、英語、オランダ語に翻訳された。 オランダ語版(『De chirurgie, ende opera van alle de wercken van Mr. Ambrosius Paré』)は1592年から何度も版を重ねている。慶安3年(1650)に出島商館医シャムベルゲル(Caspar Schamberger)がこの本を大目付井上筑後守政重に紹介すると、その翌年に幕府は東インド会社に対して義手、義足、義眼の注文を出した。「紅夷外科宗伝」を執筆したオランダ商館の通詞楢林鎮山(16481711)は『パレ全集』の記述と図版を大いに参照している。また、整骨術に関するパレの教えは華岡青洲にも影響を与えた。

 

 

16.ヨハン・フェスリンク『解剖学体系』(ドイツ語版)

Künstliche Zerlegung des gantzen menschlichen Leibes. Anfangs in Lateinischer Sprache beschrieben [...] von dem Hoch-gelährten und weit-berühmten Herren D. Joanne Veslingio, [...] allen Wund-Aertzten zu sonderbaren höchstersprießlichen Nutzen, ins Teutsche übersetzt durch Gerhardum Blasium. Nürnberg: Johann Hofmann, 1688.

 

ヨハン・フェスリンク(Johann Vesling/Johannes Wesling, 15981649はドイツミンデン(Minden)に生まれたが、幼い頃に家族とともにヴェネツィアに移住した。医学の基礎教育を受けたのち、ヴェネツィア大学の解剖の執刀者として採用され、また、ヴェネツィア領事の侍医として中近東の薬用植物などを調査した。1632年にパドヴァ大学の解剖学・外科学の教授となり、1637年にアルピーニ(Prospero Alpini)の後継者として、パドヴァ大学植物園の園長に就任した。彼が大学の「Teatro Anatomico(解剖学劇場)」で行った公開講義には学生、学者、一般市民らが殺到した。弟子にトーマス・バルトリンがいる。

1641年にパドヴァで出版されたラテン語版(『Syntagma anatomicum publicis dissectionibus in diligenter auditorum usum aptatum』)は約150年にわたり、わかりやすい解剖手引書として使用され、ドイツ語版は彼の死後、ラテン語が読めない「Wund-Aertzte理髪外科医)向けに出版された。

1659年から版を重ねたオランダ語版(『Konstige ontleding des menschelijcken lichaems』)はやがて日本に伝わり、古医方派の山脇東洋、蘭方系の河口信任、伏屋素狄も入手している。『解体新書』の参考文献には『ヘスリンキース解体書』の書名で記されている。

 
    

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