研医会図書館 2019春 展示会解説 

 2019.6.12
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2019年科学技術週間展示会 「長崎に関わる本」―輸入西洋科学書と翻訳書―

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 1~7  長崎大学名誉教授  相川忠臣 (あいうえお順)
 11~16  九州大学名誉教授、研医会研究員  ウォルフガング・ミヒェル  
 17~22  住友史料館主席研究員  海原 亮  
 23~26  熊本県立大学准教授  大島明秀  
 27~39  横浜薬科大学教授  梶 輝行  

 
 

17~22の解説

海原 亮 住友史料館主席研究員

 

17.Enchiridion Medicum,  Handleiding tot de Geneeskundige

   Hufeland, C.W.  1837年 Amsterdam

 

 

18.杉田(すぎた)成(せい)卿(けい)(訳)フーフェラント『済生三方』『医戒』 


 

訳者杉田成卿は生没年、文化14~安政6年(1817~1859)、43歳没。玄白の次男立卿を父にもつ。天保7年(1836)蘭方医坪井信道に入門、蘭学・医学を修めた。天保11年、幕府天文台の訳員を任ぜられ、蘭書翻訳に従事。ドイツ語・ラテン語にも通じた。弘化元年(1844)オランダ国王が幕府に開国を薦める国書を呈したさい翻訳グループの一員となり、またペリー来航時もアメリカ国書を翻訳している。後に、蕃書調所の教授をつとめた。『海上砲術全書』(天保15年、宇田川榕庵・箕作阮甫・杉田立卿らと共訳)など、訳著多数。

『済生三方』『医戒』は、嘉永2年(1849)に刊行されたもの。

展示する4書のうち『医戒』は、翻訳医書『済生三方』の「附刻」という位置付けである。

底本は、フーフェランド C. W. Hufeland (1762-1836)による医学便覧(ドイツ語)、これをハーヘマン H. H. Hageman (1813-1850)がオランダ語訳し、「エンシリヂオン。メヂキュム」 (『済生三方』「凡例」) Enchiridion Medicum / Handleiding tot de Geneeskundige Praktijk として1838年に刊行されたものである。成卿はこのうち “De Drie Hoofdmiddelen der Geneeskunde (医学の、3つの基本原理) の部分をまとめている。

フーフェランドの『医戒』は、医療倫理や職業としての医のありように指針を示すものとして、現代医学にも有益な内容とみなされている。成卿による翻訳は、きわめて原著に忠実とされ、そのため西洋の事情を解さない当時の読者には、難解なものとなってしまった。

成卿訳『医戒』の8年後、緒方洪庵はあらたな翻訳、ダイジェスト版『扶氏医戒之略』を著し、同書の大要を12章にまとめた。これは、彼の家塾「適塾」に掲げられ、門弟を指導するうえの指針にされたという。

 

 

19.新宮凉庭(しんぐうりょうてい)『和蘭 究理外科則』 

 

 

著者新宮凉庭は生没年、天明7~安政元年(1787~1854)、68歳没。丹後国由良(現在、京都府宮津市)出身。宇田川玄随訳の『西説内科撰要』に接し蘭方医学を志して長崎へ学問修業に赴いた。長崎では吉雄権之助・吉雄献作らに師事、オランダ商館医師バティBateijに学んだ。文政2年(1819)京都の室町高辻に開業、町医として名声を得た。

プレンキ J. J. E. von Plenck (1738~1807)の外科書・解剖書(『解体則』)など、数多くの蘭医書を翻訳し、医学教育にも熱心だった。天保10年(1839)南禅寺界隈に設けた「順正書院」では、自らの著作を用いて門生に教え、また書院は文人墨客が集うサロンともなった。

展示する『窮理外科則』は凉庭の代表的な著作、翻訳書である。

原著はオランダ人医師ゴルテル(「我爾徳兒(ゴルトル)」) J. de Gorter(1689-1762)Praxis Medicae systema, 1750. 同書が「詳カニ生象生理ヲ説キ、凡ソ外科ニ預ル諸病ハ悉ク論説シテ、其治法ヲ挙ク」ことから、「病理治術精粋多論ナルガ故ニ」全13編に分けて編集した。

ゴルテルの医学は、ライデン大学(オランダ)で活躍したブールハーフェH. Boerhaave (1668-1738)の機械論的医学思想に影響をうけたものとされる。凉庭は、遺訓『駆豎斎家訓』のなかで、初学の者にゴルテルの外科書を読ませよ、と述べており、イペイ Adolf Ypey (1747-1820)による解剖書や、プレンキの外科書とともに、これをとりわけ重視した。

文化14年(1817)最初に第7編(創・打撲・火傷・凍瘡などの各部を収載)を刊行し、その後、嘉永3年(1850)頃まで、断続的に刊行が続いた。

 

20.小森桃塢(こもりとうう)『泰西方鑑(文政版)』

 

 

著者小森桃塢は生没年、天明2~天保14年(1782~1843)、62歳没。美濃国大橋家に生まれ、伏見(現在、京都市)の医家小森義晴の養子となった。

大垣の江(え)馬(ま)春(しゅん)齢(れい)から西洋医学を学んだ後、上洛し海上随鴎(うながみずいおう)(稲村三伯)晩年の門人となり、藤林普山(ふじばやしふざん)と並び称された。その後、京都で開業。文化9年(1812)と文政4年(1821)の2度、解剖実験に携わった。(→【22】池田冬蔵(とうぞう)『解蔵図賦』)

文政3年従六位下、肥後(ひごの)介(すけ)に任じられ、同11年縫殿(ぬいの)助(すけ)となり、天保14年には従五位下、信濃守を叙任された朝廷医である。文政9年(1826)2月中旬には、新宮凉庭とともに、江戸参府途上の蘭医シーボルトと京都で面会している。また、その生涯にわたって300名を越える、多くの門弟を育成したことでも知られる。

著書に18世紀末に刊行された西洋の薬方・治療書の翻訳『蘭方枢機』や、桃塢の講義を弟子の池田冬蔵がまとめた『病因精義』などがある。

展示する『泰西方鑑』は、文政10年(1827)刊行。書名の通り、西洋で用いられる治療用の薬品を収め、約3000種について論じたもの。展示中の冒頭部は、参照・引用した洋書およそ100部を列挙し、独自の符号を定めている。本邦の薬材を使い、代薬40余種を提示した点、翻訳を中心とした初期の蘭学から一歩、前進したものと評価できる。わが国の蘭学はこの時期、舶来の知識・技術を応用する、あらたな段階へと展開した。

第1巻137丁、第2巻195丁、第3巻163丁、第4巻157丁、第5巻188丁と、付録55丁を数える。各巻の冒頭には「参録」者として、3名の門人(池田冬蔵〔越前〕・山崎玄東・吉田君謙〔平安〕)が記されている。

 

 


21.池田(いけだ)冬蔵(とうぞう)『解臓図賦(文政版)』 

 

 

文政4年(1821)12月16日、小森桃(とう)塢(う)が主宰し、京都西刑場で実施された刑死(男、23歳)解剖の記録で、桃塢門人の池田冬蔵がまとめて、翌文政5年3月に刊行された。

本書の奥付には、「発行書肆」として、江戸の須原屋伊八、大坂の河内屋喜兵衛、京都の若山屋茂助ら、当代を代表する書物屋の名が並んでいる。

序文によると、桃は文化9年(1812)伏見在住時代に1度目の解剖実験をおこなったが、冬蔵をはじめ一部の門人はまだ入門していなかったため、あらためてこれを望み、官に乞うて実現させた、という。

当時の解剖実験では、絵の巧みな者を参加させ、臓器を描かせて後学の参考とすることが多い。『解臓図譜』で「図象」を担当した伊藤寿(山平、近江国膳所藩士か)の流派は不明だが、写実を得意とする絵師だろう。

本書の前半には、解剖実験の当事者・参観者が列挙されている。「教師」として小森桃塢、実験の主導者たる「督務」には、門弟の池田冬蔵・藤田長禎を置き、主解6名・助刀5名・説弁3名・書記4名・図象3名・曲事3名・参事4名・司籍3名・司鏡3名・司器1名・監病2名・接客2名・司礪1名、他に僕役20名を配したという。また、実際に解剖を指揮する「主解」は、それぞれ分担を決め、たとえば小森義真(桃塢の子)は胃・大小腸・乳糜管を担当した。

続いて、同門で来会した者11名と、他門の観客49名の氏名を載せている。実験には、計133名が参加したことがわかる。参観者には、京都の著名な蘭学者藤林普山(ふじばやしふざん)や、伊東舜(しゅん)民(みん)(圭介、幕末~明治に活躍した博物学者)の名もみえる。

池田冬蔵がまとめた桃塢の講義録『病因精義』は、西欧的な医学論を基礎としたものだった。長崎経由で移入された先端の知識・技術は、文政4年の解剖で、京都の医界に大きな成果をもたらしたのである。『解臓図譜』は、幕末に至るまで、長く数版を重ねた。

 

22.緒方(おがた)洪(こう)庵(あん)『虎狼痢(コラウリ)治準

 

 

著者緒方洪庵は生没年、文化7~文久3年(1810~1863)、54歳没。備中国足守の出身、幕末の大坂を代表する蘭方医。大坂で中天游、江戸で坪井信道らに学ぶ。

天保7年(1826)には長崎へ遊学し、オランダ商館長に就いて学んだといわれるが、当時の交友関係を含めて、不明な点も多い。帰坂後に創設した「適塾」では数多くの門生を教授し、後の医界や近代国家を主導する逸材を輩出したことでよく知られている。

安政5年(1858)7月、長崎に入港したアメリカの軍艦ミシシッピー号のもたらしたコレラは、九州・四国を皮切りに、近畿・江戸に至る大流行となった。これは、世界史的にみると1852~60年にかけての世界的流行(パンデミック pandemic)期にあたる。長崎では、医学伝習所で指導していたオランダ海軍医師ポンペJ. L. C. Pompe van Meerdervoort (1829-1903)が主導し、西洋流の手法に倣って、コレラ対策をおこなっていた。

大坂でも8月半ばごろより流行をみたが、十分な対処を為し得なかったため、洪庵は自身の手許にある西洋医書(ドイツ人医師のコンラジ〔J. W. H. Conradi, 1780-1861〕・モスト〔G. F. Most, 1794-1832〕・カンスタット〔K. F.  Canstatt, 1807-50〕による3書)から、コレラに関する項を抄訳、緊急出版した。9月6日、100部限定(「百部絶板 不許売買」)で刊行されたのが本書『虎狼痢治準』である。

ただし、研医会本は、巻末に出版広告と「安政四年丁巳初秋」の年記載がみえる。

洪庵自身、戸塚静海宛ての書簡で、同書は「世上のため一書急々編訳仕候」ものゆえに、「実に急卒の所業、電覧を汚すべきにもこれなく候へども、唯々世の為めに苦辛仕候赤心の程、御察観下さるべく候」(『緒方洪庵のてがみ』)と訳業の粗雑さを自覚している。だが、彼の行動は「世上のため」、医師として有益なことをしたい、との「赤心」に拠るのだった。

 
    

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