研医会図書館 2019春 展示会解説 

 2019.7.26
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2019年科学技術週間展示会 「長崎に関わる本」―輸入西洋科学書と翻訳書―

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 1~7  長崎大学名誉教授  相川忠臣 (あいうえお順)
 11~16  九州大学名誉教授、研医会研究員  ウォルフガング・ミヒェル  
 17~22  住友史料館主席研究員  海原 亮  
 23~26  熊本県立大学准教授  大島明秀  
 27~39  横浜薬科大学教授  梶 輝行  

 
 

23~26の解説

大島明秀  熊本県立大学准教授 

 

23.24 キール『天文学・物理学入門』と志筑忠雄訳「求力法論」

 

 

  

 

キール(John Keill)はイギリス・オックスフォード大学の天文学教授をつとめた人物で、同大学でニュートン物理学を初めて講義した一人であった。ラテン語で行われたその物理学講義録は、大学生向けの教科書として1701年に『物理学入門』(Introductio ad veram physicam)という名で上梓され、ついで1718 年には天文学関係の講義が『天文学入門』(Introductio ad veram astronomiam)という一冊となった。

並行してキールは王立協会の機関誌『フィロソフィカル・トランザクションズ』(Philosophical Transactions)に英語論文「引力の法則及び他の物理学の原理について」(On the Laws of attraction and Other Principles of Physics, 1708)を掲載し、また、求心力の法則に関するラテン語の2論文(Epistola ad Clarissimum Virum Edmundum Halleium Geometriae Professorem Savilianum, de Legibus Virium Centripetarum, 1708)、(Observationes in ea quae edidit Celeberimus Geometra Johannes Bernoulli in Commentariis Physico Mathematicis Parisiensibus Anno 1710, de inverso Problemate virium Centripetarum. Et eiusdem Problematis solution nova, 1714)を発表した。

1741 年にオランダ・ライデン大学天文学教授リュロフス(Johan Lulofs)は、上記を含めたキールによる六編の論文・講義録などを一冊に編み、そこに自身の注釈も付してオランダ語に訳した『天文学・物理学入門』(Inleidinge tot de waare Natuur- en Sterrekunde)を刊行した。

 

  

 

さて、長崎の蘭学者志筑忠雄はその生涯を蘭書の翻訳に捧げ、天文・物理学、オランダ語文法学、海外事情・地理誌に及ぶ様々な訳書を産出したが、中でもキール『天文学・物理学入門』訳業に半生を費やした。弱冠23歳時の著書「万国管闚」(ばんこくかんき)(1782序)においてキール『天文学・物理学入門』に言及していることから、志筑がこの頃までに本書を閲覧していたことが分かり、爾後、志筑は二十年以上にわたって和訳に取り組み、その仕事は享和2年(1802)に「暦象新書」として大成する。この訳本によって初めて日本にニュートン物理学が伝えられることとなったが、訳には適宜改変が加えられており、ニュートン物理学に対する正確な理解が目指されたというより、伝統的な気の理論によって再解釈されたものであった。

かかる訳業の一環として天明4年(1784)に成された「求力法論」は、キール『天文学・物理学入門』中に収められた前記「引力の法則及び他の物理学の原理について」の蘭語訳(Over de Wetten der Aantrekkinge, en andere Grondbeginzels der Natuurkunde)部分を訳出したもので、分子間力について論じた内容となっている。研医会図書館所蔵の「求力法論」には志筑忠雄の奥書とともに旧蔵者を示す朱印「養素堂印」が認められるが、養素堂がいかなる人物かは不明である。

 

 

25.26 ケンペル『廻国奇観』と黒沢翁満編『異人恐怖伝』

 

   

 

 ケンペル(Engelbert Kaempfer)は、1651年9月16日北部ドイツの地方都市レムゴーで生まれ、文献学、歴史学、地理学、哲学、古典文学、医学、哲学、法学を修め、スウェーデン王国使節団の秘書官を経てオランダ東インド会社に採用され、船の外科医としてオランダ領インドのツチコリン、コーチン、セイロン、バタフィア、アユタヤ滞在を経て、元禄3年(1690)9月長崎に入港、2年間日本に滞在した。

ヨーロッパ帰郷後の1712年、生前の唯一の著書『廻国奇観』(Amoenitates Exoticae)が故郷レムゴーで刊行された。原書名に含まれたamoenitates という語は、優美な、若しくは魅力的なという文字通り魅力ある言葉で、古典ラテン文学でよく用いられている言葉であるが、中世に始まる旅行文学にも見られ、ケンペルの付したこのタイトルは、古典ラテン文学以来用いられてきた語彙を利用した伝統的な部分と、旅行文学の中で用いられたばかりの語彙を使用するという革新的な部分を併せ持っている。また、全体が5巻から構成されているところは、古代ローマ帝国の政治家で学者、弁論家でもあったキケロの影響を受けているものと指摘されている。

内容は主にペルシャ、インド、日本の植物、医学、薬学などについてであった。挿図はケンペルが自費で雇った版画家に依頼したので粗末なものであったが、本書はヨーロッパ知識人の間でケンペルの名を広め、中でも第5巻「日本植物誌」(Flora Japonica)は、西洋における本格的な日本植物研究の原点となった。

『廻国奇観』第2巻第14章は、「日本王国が最良の見識によって自国民の出国および外国人の入国、交易を禁じていること」(Regnum Japoniae optimâ ratione, ab egressu civium, & exterarum gentium ingressu & communione, clausum.)という論文で、これが後にショイヒツァー版『日本誌』(1727)に所収され、そのオランダ語訳第2版(1733)を底本に、長崎の蘭学者志筑忠雄が「鎖国論」(1801)と題して訳出し、これが近世後期の日本で受容された。

写本で広まった「鎖国論」の論旨は、外との交流を閉ざすことはキリスト教では原則的に禁止であるが、諸条件を有する日本については例外的に認めるという内容で、そのケンペル原文の見解に加え、西洋人に対する志筑の排外的な注が時折交えられたものであった。ただし、読者にはケンペル原文や志筑訳の意図から離れたものとなって享受される。特にケンペルが指摘した日本の諸条件を根拠として、平田派国学者を中心に「鎖国論」は「西洋人ケンペルによる日本賛美論」に読み替えられ、幕末に至るまでこの読み方が流布、古典化していった。

 


 

嘉永3年(1850)、黒沢翁満は世間に広まっている「鎖国論」写本を複数入手・校訂した上で、『異人恐怖伝』と改題して木版3巻で初めて上梓した。本書は「鎖国論」を翻刻した前編と、翁満自身の見解を述べた後編「刻異人恐怖伝論」の全3巻から構成される。「刻異人恐怖伝論」によれば、翁満もまた平田派国学者と同様に「鎖国論」を解釈した上で、異国に恐れを抱くことに起因する民衆の不安定な精神状況の解消のために出版に至った経緯を述べている。

 

 

 

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