2026.3.17
図1 『松香遺稿』帙
『松香遺稿』
先日、熱海梅園に行った際、この梅園が日本公衆衛生の父といわれる長與専齋(以下 長与専斎とする 1838-1902)の提案で作られた、という内容の石碑を見つけました。ポンぺやマンスフェルトに学び、明治時代、岩倉使節団の一員として欧州を歩き、各国の医療制度や医療の実態、公衆衛生のシステムなどを見学した上で、日本の衛生や医療、国民の健康について考え、それを制度として整えた人物です。梅園の石碑には専斎が健康作りには温泉と散策がよいと提唱し、自らこの地を選定した、とありました。専斎の声に応じたのは横浜で生糸商人から財界の中心人物となった茂木惣兵衛で、そうした過去の人物たちの意思が今に伝えられて市民憩いの場になっていることに心が温かくなりました。
『松香遺稿』は専斎の三男である又郎(またお)が編集した本で、「松香遺稿序」には、この本が成った経緯が書かれています。巻のはじめに「昭龢申戌九月印行」という判がありますが、これは専斎の三十三回忌が9月8日であったので、その年忌に合わせて発行されたことを示しているようです。
もともと、専斎は生前自らの生涯を子孫へ伝えるために「松香私志」という自伝をまとめており、亡くなった後に遺族はこれを印刷して周囲の人に配っていたそうです。又郎は、この自伝に漏れていることがらを、さらに知人たちに求め、資料を集めていたのですが、関東大震災の火災で烏有に帰してしまいました。しかしながら、又郎は病で倒れたことをきっかけに再度、父専斎の資料を集め始め、この『松香遺稿』にまとめました。それにしても、自分の父親の書いた文章や詩、揮毫した書を何年もかけて集めるというのは、大変な苦労です。長与又郎自身も病理学の研究者であり、日本癌学会、公衆衛生院、結核予防会を設立した人です。偉い親を持つということは子孫も大変なことだと思われます。
本の半ばには専斎が使った多くの印譜があり、また巻末には末子で8番目の子である善郎の「跋」があります。この善郎の文章も、専斎という人物を生き生きと描いており、面白いものです。石碑に刻まれた人物たちも、このように文章の中に生かされることで、後の私たちにも近い存在になると感じました。
図2 同本 表紙
図3 専斎33回忌の昭和申戌九月印行 の判と専斎の肖像
図4 同本 「松香遺稿」の最初
図5 熱海梅園、入口近くの石碑「梅園の由来」 「長与専斎略歴」2026年2月撮影