研医会通信 47号   2010.3.5

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2010年  科学技術週間 イベント

この催しは修了いたしました。ご来場、ありがとうございました。

「『傷寒論』とその関連本 その2」

   ―東洋医学の大きな柱 『傷寒論』を読み解いてきた歴史をみる (展示会)   

 研医会図書館では、毎年文部科学省の科学技術週間にあわせて本の展示会を行っております。
 今年も昨年に続き「傷寒論とその関連本 その2」と題して東洋医学の基本書である『傷寒論』及びその研究書をお目にかけます。
 劉完素の『傷寒直格』や浅田宗伯の『傷寒論識』など、漢方医学の世界をご覧ください。

 

日程:   4月12日(月)〜4月16日(金)
開催時間:   9:00〜17:00
開催場所:   中央区銀座 5−3−8 財団法人研医会図書館
交通:   東京メトロ銀座駅 徒歩5分 ソニー通り  
対象:   中学生以上
入場料:   無料  (眼科受付よりお入りください)
主催:   財団法人 研医会
問い合わせ先:   研医会図書館  e-mail: ken-i-kai@nifty.com

* 図書館ご利用の方は電話にてご予約ください。 03−3571−0194(代表) 

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・2010年科学技術週間 展示会 「傷寒論とその関連本 その2」に展示した本の写真はこちら

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著者・編者
書名
体裁
和暦
西暦
発行者
 1 張仲景:著 王叔和:撰 集註傷寒論 巻1-10 4 寛文 8 1668 上村次郎右衛門
 2 張仲景:述 王叔和:撰次 傷寒論(翻刻宋板傷寒論)   1 寛文 8 1668 中川茂兵衛 板行
 3 喩嘉言 傷寒尚論編 巻首-第3 3 元禄 9 1696 武村新兵衛
 4 劉河間(完素):述   葛雍:編 傷寒直格(論方) 巻 上・中・下 3 享保 11刊 1726 玄賞齋梓
 5 張仲景:著 金匱玉函経眞本 序目、巻1−8 4 延享 3 1746  
 6 張仲景:原文  柯韻伯:編註 傷寒來蘇集、傷寒論註 巻1−巻4 6 乾隆 20 1755 金(門に昌)經義堂蔵板
 7 学之泰人 (大江学) 傷寒論金匱要畧薬性弁 上・中・下編 3  明和 4 1767  
 8 山田正珍(宗俊 ) 傷寒考   1 安永 1771-1780 須原屋伊八
 9 浅野太蔵   正木政軒 傷寒金匱秤量考  分量等考   1 天明 元 1781 京都 西村市郎衛門他
10 名古屋玄医:註 金匱要略註解 巻1−6 5 天明 8 1788 大阪 河内屋八兵衛
11 山田正珍(宗俊 ) 傷寒論集成 巻首−10 10 寛政 元 1789 杏花園蔵板
12 橘春暉:述 傷寒論分註   1 寛政 3 1791 林宗兵衛
13 天俊英:校   御纂医宗金鑑 傷寒論部 巻1−3 8 寛政 4 1792 求応堂蔵
14 片倉鶴陵 傷寒啓微 上・中・下 3 寛政 5 1793 玉巌堂 他須原屋茂兵衛
15 東海林順泰大明 傷寒論通断 巻1−10 5 寛政 7 1795 棗林堂蔵板 西村源天 書肆
16 張仲景:述 浅野徽:校正 校正 宋版傷寒論 全10巻 3 寛政 9 1856 王叔和:撰 趙開美:校刻 
17 張路玉:著  前田長庵:再訂 傷寒大成(傷寒纉論・傷寒緒論) 各 上下 4 文化 元 1804 思得堂蔵板
18 川越衡山 傷寒論脉證式 巻1−7 5 文化 13 1816 奉萋園蔵板
19 浅田宗伯:著  加藤慶寿:写 傷寒論識 巻1 6 明治 14 1881 東京牛込横寺町、勿誤堂、浅田塾
20 奥田謙蔵 傷寒論梗概     昭和 29 1954 東京漢方医学会
21 鈴木素行良知 傷寒論解故 1−3        
22 張仲景:著 傷寒論 序−巻10 3     江戸 木活字


1.集註傷寒論(仲景全書 傷寒論集解)巻1−10 (冊4)

  寛文8年(1668)上村次郎右衛門
   巻頭より、@明・万暦己亥三月、趙開美の「刻仲景全書序」 A厳器之の「註解傷寒論序」、「傷寒論後序」 B宋臣・林億の「傷寒論序」 C元祐3年牒文 D張機(張仲景)と王叔和と成無己の「醫林列伝」 E凡例 F張機「傷寒卒病論集」 G「諸家評註姓氏」 H「仲景全書傷寒論目録」 I「集註傷寒論」本文 の順に収載されている。H「仲景全書傷寒論目録」の部分のみ、版心の書名が「傷寒論」となっていて、目録部分の文字も大きく美しい。他の葉は「仲景全書」となっている。
『注解傷寒論』の全てを収め、返り点も付されるため、出版部数も多かった。成無己注
から張卿子まで全26家の注を集成する。


 

2.翻刻宋版傷寒論 巻1−10 洛下岡嶋玄提 後序

  寛文8年(1668) 姉小路堀川東江入町 中川茂兵衛 板行
   @「傷寒卒病論集」 A「傷寒論序」 B元祐3年牒文 C「傷寒論目録」 D「傷寒論」巻一〜巻十 本文 E岡嶋玄提 後序 の順となっている。とても書き込みの多い書で、しかも別人の筆跡であちらこちらに見える。一冊の本を幾人もの医家が学んだのであろうか。その内容は傍線、返り点、赤鉛筆での丸印などに始まり、『註解傷寒論』『金匱玉函經』『証類本草』『脈経』『病源候論』『千金方』『千金翼方』『外台秘要方』『医宗金鑑』『倉公傳』『肘後備急方』『傷寒論後条弁』「山田正珍(まさしげ)医案」「白水筝山医案」など他の医書との比較であったり、要点のメモであったり、あるいは西洋医学との対比で漢方の言い回しを理解しようとしていたりと、さまざまである。




3.傷寒尚論篇   喩嘉言:著 

  元禄9年(1696) 博古堂・武村新兵衛 刊
   喩嘉言は今の江西省南昌市新建県の出身。明の万暦13年(1585)に生まれ、清の康熙3年(1664)ごろに亡くなったと伝えられている。政治への失望から一時は出家するが、『内経』『傷寒論』『本草綱目』を学んで還俗し、医師となった。著書とされるものは多いが、大半は喩嘉言の名に託されたもので、本当の自著はこの『傷寒尚論篇』と『寓意草』『医門法律』『尚論後篇』のみ。王叔和や林億らを批判するものの、実は喩嘉言が提唱する論は過去の二人が唱えた説と同様であるという。版本は康熙年間に2回、乾隆4年に1回、日本では元禄9年に1回刊行された。日本において古方派の名古屋玄医(1628-1696)がこの『傷寒尚論篇』を読んで刺激を受けた。所蔵のこの本はエンタプライズより影印復刻された時の底本になったものである。序文の文字が美しい。



4.傷寒直格 劉完素(河間):述 葛雍:編 

  享保11年(1726)武城通銀町(江戸日本橋)富士屋:刻 玄賞齋:梓
   劉完素は字を守真、号を通玄處士、出身地が河北省の河間県であったことから、河間居士とも号した。それ以前の医師たちが方剤に関する研究に熱心だったのに対し、むしろ『素問』など医学理論の研究に向かい、後に「寒涼派」の祖と呼ばれるようになる。この3冊本の最後には享保甲辰孟秋の跋に続き、宣伝用に「河間劉先生 書目」として『原病式』『傷寒直格』『類萃標本心法』『保命集』『宣命論』『運氣要旨』が挙げられている。『傷寒直格』の内容は臓腑経絡と五運六気を主とする総論と脉論の上巻、傷寒の諸症状に応じた処方を延べる中巻、仲景処方を解説し、傷寒についての理論を展開する下巻という流れになっている。この和刻本は明の『医統正脈全書』本に基づく。




5.金匱玉函経眞本 序目、巻1−8 張 仲景:著 

  延享3年(1746) 京都 成美堂 清水敬長:序
   山脇東洋の実弟、清水敬長が翻刻した本。『金匱玉函経』については宋代に林億らが出してから650年もの間出版された記録がなく、日本でもこの延享3年版があるのみ。偽書ではないかと疑う者もいたが、西域・敦煌で発見されたスタインやペリオの文書の中に、唐以前より『金匱玉函経』の文章が存在したことを証明する部分が見つかったという。当初の『傷寒論』は葛洪によって大部の『玉函方 100巻』と簡便さを目的とした『肘後方』とに分かれ、さらに『玉函方 100巻』は『金匱玉函経』と『金匱要略』とに受け継がれ、一方では孫思バク(581-682)の『千金翼方』にも影響を与えていく。ただし『傷寒論』にない処方も含んでおり、今後のさらなる研究が俟たれる。




6.傷寒來蘇集 (傷寒論註 巻1−4、傷寒附翼 上下巻)  柯琴:著 

  清 乾隆20年(1755) 金○(門に昌)經義堂蔵板
   上記の2書に『傷寒論翼』2巻を合わせた3書8巻が本来の『傷寒來蘇集』かと思われるが、所蔵のものは『傷寒論注』4巻(1669)、『傷寒附翼』2巻(1674)の2書がひとつの帙に納められている。著者の柯琴(字は韻伯)は、浙江省慈谿の人。明末ごろの生まれと考えられる。傷寒及び雑病を合わせて考え、六経で百病を統一することにより不滅の理論をうちたてた、と評される。原著『傷寒論』にある「○○湯証」という言い方を使って篇名にした。たとえば宋版傷寒論では「傷寒脉浮緊。不發汗。因衂者。屬麻黄湯證。」というように、脈の様子や病状を示して、○○湯(あるいは散・丸などの薬名)の証に属すという言い方をするが、これを利用した項目だてをしたのである。これによって証と方のつながりが明確になったといわれ、方証相対を唱えた日本の吉益東洞(1702-1773)の医論にも影響を与えたとされる。



7.傷寒論金匱要畧薬性弁 上・中・下編  雷門 学之泰人(大江学):著   

  明和4年(1767)
   大江学という人物の書いた本で、序文においては「傷寒論所輯方一百一十二 金匱要略所輯二百六十二 除重複合得三百三十二方 用薬二百一十一種」について古来の本草書をもってその効能をまとめた、とある。序文・凡例に続く目録では、草木類129、穀類16、血氣類38、金石土類22、水類8、総計211の薬剤をあげ、附録として温粉方を足している。血氣類には妙なものもたくさん含まれていて、水蛭、鶏冠、カワウソの肝、虫の類、人の頭のフケ、人を含むさまざまな動物の糞尿の類まで挙げられている。阿膠については、ロバの皮の膠ではあるが、牛皮でつくったものが多く、本物は得がたい、とある。現代でも阿膠は牛由来のゼラチンを使っていると聞く。



8.傷寒考 東都 山田正珍(1749?-1787)・宗俊:著 

  安永8年(1779):序  江戸 池端 須原屋伊八:発行
  巻頭に、安永8年冬至の越前大野、侍医・雨森栄茂宗益の序、同じ年仲冬の宮田明の序がある。著者山田正珍は字を宗俊、号を図南という。代々幕府医官で『傷寒論』研究をし、諸家の考証を集めた上に自説を加え本書をまとめたとされている。序文には早世した永富独嘯庵(1732−1766)の『独嘯庵漫遊雑記』が引用され、古医方を学ぶには『傷寒論』をよく読むべきと述べられている。また、京都の中西惟忠の『傷寒名数解』や『医宗金鑑』などの書名もあげていて、多くの書籍を渉猟したことが伺える。一冊本であるが、巻末には須原屋伊八の本の宣伝も載っていて、「図南先生出書目」として『傷寒考続編』『傷寒考外編』『傷寒温疫一病辨』『行餘漫筆』の書名が挙がっている。



 
9.傷寒金匱秤量考 分量等考  浅野太蔵 正木瀬平政軒

  天明元年(1781) 京都 西村市郎衛門 他 刊
   浅野太藏が著した『秤量考』と正木政軒の『分量等考』という2つの書が収載された小さな本である。現代においても、漢方薬の分量については多くの論議があり、国によって、地域によって、あるいは流派によってさまざまな考え方が並立している。この本では、『漢書』『名醫別録』『唐・新修本草』『隋書』『晋書』といった資料から秤量に関する部分を集めている。しかし、実際の臨床における薬の考察をするというのではなく、本に述べられている数字を調べ上げた、という感がある。また『分量等考』には、吉田光由の『塵却記』、山田正重の『改?記』、礒村吉徳の『闕疑抄』、野澤定長の『童芥抄』、佐藤正奥の『根源記』という算術書が挙げられていて、当分野の広がりを感じる。




10.金匱要略註解 巻1−6 名古屋 玄医:註 

  天明8年(1788)  大阪 河内屋八兵衛:刊
   現代書『金匱要略講話』(創元社:刊)の序文で大塚敬節氏は、永富独嘯庵が「一つの傷寒論を枕にして足れり」と喝破したが、ここに言う『傷寒論』とは『金匱要略』をも含めたものである、と述べている。名古屋玄医(1628‐1696)は京都の出身。字は富潤、閲甫。号は丹水子、宜春庵、桐渓。『医方問余』『医学愚得』『丹水子』『丹水家訓』もこの人の著作。喩嘉言の『傷寒尚論篇』の影響を受けたという。本書は『金匱要略』の文章を取り上げて、その後に解説をつけていくが、解説文の中には『素問』『霊枢』『難経』『傷寒明理論』などの書名があり、これらの医書の中に一貫した論理を見出そうという努力がみられる。足が不自由で晩年は麻痺もあったというが、意欲の人であった。




11.傷寒論集成 巻首−10  山田 正珍:著 

  寛政元年(1789) 杏花園:蔵板
   著者の山田正珍(まさしげ)(1749−1787)は、字を玄同また宗俊といい、号は図南、書斎を杏花園といった。この本の版心にも「杏花園蔵版」と刷られている。代々江戸幕府の医官に生まれ、儒学を山本北山、素霊を加藤筑水、本草を田村藍水に学んだ折衷派の医家である。少年の頃より秀才の誉れ高く、本書のほかに『傷寒考』『傷寒検証』『天命弁』『新論』を著した。39歳の若さで没したため、20年の歳月をかけ精確さをめざした未完の『傷寒論集成』は、後に太田元貞らが刊行した。この本の巻頭には医官・丹波元簡の寛政2年の序文があり、それに続いて寛政元年12月9日の太田元貞の序がある。編次は首巻、巻之一太陽上篇、巻之二太陽中篇、巻之三太陽中篇、巻之四太陽下篇、巻之五太陽下篇、巻之六陽明篇、巻之七陽明篇、巻之八太陰篇、巻之九厥陰篇、巻之十霍亂篇。



12.傷寒論分註  橘 春暉:述  

  寛政3年(1791) 京都 林宗兵衛:発行
   著者の橘南谿(1753〜1805)は伊勢国久居藩士宮川保永の五男として生まれる。父を早くに亡くし苦労するなか、京で医学を志し独学で古医方を学んだ。安永8年(1779)頃大阪で開業したが、京都で100体を超える人体解剖を行った小石元俊と知り合い、その元で、天明3年(1783)伏見において処刑者平次郎の解体の機会を得て、画家吉村蘭洲とともに『平次郎解剖図巻』を作成する。その後医学修行の旅に出て『東遊記』『西遊記』なる旅行記を出した。長崎では蘭方医、吉雄耕牛を介して顕微鏡や望遠鏡にも触れ、後に望遠鏡の製作者となる岩橋善兵衛らと天体観測の会を催している。本書は、分注と名づけているように、大文字で傷寒論の条文を書き、二行書きの小文字で注釈を入れている。巻末の「三陽三陰邪位畧図」が不思議でおもしろい。



13.御纂医宗金鑑 傷寒論部 巻1−3 天俊英:校 

  寛政4年(1792)求応堂:蔵
  清朝、乾隆年間に武英殿が刊行した『医宗金鑑』は最後の漢方医学全書といわれた書である。清朝の盛時に高宗の勅命を受け、国家的規模で編成した近世中国医学の代表的医書である。総計90巻は医官の呉謙らによって医家の実用を主旨として編集され、最初に『傷寒論』『金匱要略』という基本書をおき、後に図、説、歌訣でわかりやすく解説している。満州国で漢方医の国家試験を行うとき、岡西為人は意見を求められ、「医書は『医宗金鑑』、本草は『本草備要』を基準にすべき」と提言し、採用されたという。版種の多いことも岡西が『医宗金鑑』を推した理由だという。江戸時代には90巻を15部に分けた部門ごとに出版されたらしく、所蔵のものの巻末には本の宣伝がついており、「醫宗金鑑 傷寒論部 出来」「金匱要略部 近刻」などと広告されている。



14.傷寒啓微 上・中・下 片倉鶴陵(1751-1822):著 

 

  寛政5年(1793) 玉巌堂、他 須原屋茂兵衛:刊
   著者・片倉元周、字は深甫、鶴陵は号である。多紀家に入門し、元簡とともに井上金峨の塾で学んだ。13年いた多紀家を出て開業後、隣家の蘭方医嶺春泰(前野良沢の門人)を通じて蘭方にも関心を持ち、さらに京都に出向いて賀川流の産科を学んだ。『傷寒啓徴』のほか梅毒(黴毒)と癩(癘病)について書いた『黴癘新書(ばいらいしんしょ)』『産科発蒙』(蘭方の説を引用した産科書)『静倹堂治験』『青嚢瑣探(せいのうさたん)』『屠蘇考』などの著作があり、当図書館も所蔵している。『医学質験仁集』の中に『傷寒啓微』(上中下)があるが、巻末には玉巌堂蔵梓目録があり、それぞれの宣伝文がある。それによれば『傷寒啓微』は「温疫と傷寒と同病たるを弁明」し不足を補う方を撰してあるという。



15.傷寒論通断 巻1−10 東海林順泰大明 

  寛政7年(1795) 棗林堂:蔵板  西村源天:書肆
   巻頭には、山本信有(北山)(1752-1812)の13葉にもわたる「傷寒論通断序」、 ?(しょく)江?(きゅう)の「傷寒通断序」、官医 木村瑶玄長甫の序文(題なし)、田邉正中民亮の「傷寒論通断序」、さらに荏士松井永延なる者の寛政6年11月の「傷寒論通断序」がのせられている。このうち、山本北山は詩作に関する本を数多くだしている人物で、奚疑塾という塾を開いていた。著者の東海林順泰は秋田藩医、木村瑶玄は「官醫」と記している。原文を掲出した後、一段下げて注釈を述べ、さらにその後箇条書きで「成無己曰…」とか「張?玉曰…」などと他の者の意見を引く。また「按」と小文字をつけて考えがまとめられている。序文、例言、太陽一〜五、陽明、少陽、太陰、少陰、厥陰の構成。



16.校正 宋版傷寒論 全10巻 浅野 徽・校正

  寛政9年(1797)拙菴蔵板 尾張 浅野徽元甫校
   宋の4代皇帝仁宗の頃、出版技術の発達を背景に多くの書物の校正出版が国家的事業として着手された。宋臣・林億らは9つの医書を立て続けに刊行したが『傷寒論10巻』(1065)は真っ先に校勘され世に出た。実践的な臨床の研究書として最重要視されていたことがわかる。また林億らは『傷寒論』を出した後、雑病論も『金匱要略』として再編している。2世紀の頃、張仲景(張機)によってまとめられた原・『傷寒雑病論』(元の書名は不明、張仲景方などと呼ばれたらしい)は晋の王叔和(3世紀)によって再度まとめられ、さらにそれも散逸した後、宋代に今の『宋版傷寒論』が生まれた。見返しの頁では、右上に猿が北斗七星を蹴り上げている図柄の科挙合格祈願の丸い判がある。




17.傷寒大成(傷寒纉論・傷寒緒論)各 上下巻 張路玉:撰  登誕先・倬飛疇:編  前田長庵:再訂

  文化元年(1804)思得堂蔵板  (纉の正字は糸に先を二つ並べた下に貝=サン・つづく)
   清代の医家、張○(王に路)が著した書。康熙年間の弟胡周序(1665)と自序(1667)がつく。張○(王に路)は、張路玉と表記されることもあり、石玩と号す。他の著作として、『診宗三昧』や『張氏医通』(1695) がある。前者は『傷寒纉(さん)論』同様、登誕先と倬飛疇が編集している。『傷寒纉論』目次には、最初に「正方目録」として113の方剤名によるリストがあり、次に「傷寒纉論目録」として、六経分類による10の項目、下巻に、蔵結結胸痞篇、合病併病篇、温熱病篇、雑篇、脉法篇、傷寒例、正方、附古方分兩の項目が挙がっている。また、『傷寒緒論』は李瑾の撰で116の雑方が収載される。


 


18.傷寒論脉證式 巻1−7 川越衡山:著 

  文化13年(1816)嶺ト園蔵板
   巻頭には「典薬寮司醫 川越佐渡別駕正淑大亮著」とある。序文は文化元年(1804)に書かれている。正淑は号、字は衡山、俗称を川越佐渡介という古方派の医家(1758−1828)。京都市東山の実報寺(日蓮本宗)に墓があるという。(多留淳文「漢方医家先哲墓参誌(上)」)本文は六経に従って脈や病期を説明し、『傷寒論』の条文を掲げては、その解説を述べるという形式。症状がこれこれの状態であるのは、邪がどこにあるためで、何が指標になり、脈はどのようになるか、などの表現がされている。返り点も打たれていて、印刷の美しい本なので、読みやすい本である。明治の漢方六賢人の筆頭である浅田宗伯(1815−1894)は川越衡山にも付いて学んだという。




19.傷寒論識   浅田 宗伯:著 加藤 慶寿:写 

  明治14年(1881) 東京牛込横寺町 勿誤堂 浅田塾
   著者の浅田宗伯は、頼山陽に儒学を学び、江戸医学館で多紀元堅・小島尚質・喜多村直寛らに学んだ後、徳川家の典医となり、明治期には宮内省の侍医となり活躍した人物。幼名を直民、後に惟常。字は識此、号を栗園と称した。またその薬室名は「誤らしむること勿れ」より、「勿誤薬室」と命名した。『勿誤薬室方函口訣』『橘窓書影』『古方薬議』『脈法私言』『傷寒論識』『雑病論識』『皇国名医伝』『先哲医話』など200巻におよぶ著作がある。詩や書も残しており、当館にも数本の軸が寄託されている。この本は加藤慶寿という人物が明治14年頃に東京牛込横寺町の勿誤薬室(浅田塾)や甲斐の上野原の病院にて書写したものである。美しくはないが几帳面な文字で綴られ、人柄が偲ばれる。




20.傷寒論梗概   奥田謙蔵:著

   昭和29年(1954)東京漢方医学会
   凡例をみると、「一、此書は、傷寒論中の太陽病上篇より、差後労復病篇に至るまでの慷慨を述べたものである。」とある。また、原本の弁脈法、平脈法、傷寒例、弁痙湿渇、弁不可発汗、弁可発汗、弁発汗後病などの数篇は実際の治療に関係することが少ない、として採用しなかったことも述べられている。緒論の最初に、「傷寒とは、活動しつつ経過して、種々に変化、発展しようとする多数の病を代表せる者の名であって、必ずしも寒に傷らるると云うが如き、或る種の単一なる病を指したものではない。」と傷寒の定義がなされている。漢方独特の言い回しや用語をこのような本で整理してから勉強すれば、東洋医学についての理解がより深まるであろうと思われる。後半の薬方のページも、要点を数行で整理した解説がなされている。



21.傷寒論解故(1)―(3) 鈴木素行(良知):著 

  刊記なし
   最初の数ページを繰って驚くのは、張仲景について各書の伝えるところを紹介した後、「素行案ずるに…」とあり張仲景と華陀が同一人物であるという説が述べられていることである。原稿用紙に綴られた文章のところどころには赤点が付けられて、さらには別紙の貼り付けまである。ユニークな考えの持ち主であったとは思われるが、その調べ上げている書物は多く、著者の追及心はなかなかのものであったと思われる。医生・鈴木素行には『傷寒論註来蘇集』なる本もあり、こちらは清代の乾隆31年(1766)柯琴(柯韻伯1662-1735)によって書かれた本を撰したという(展示6の『傷寒来蘇集』参照)。この展示本にも成無己(11.12世紀)や王肯堂(1549−1613)の名とともに、「柯琴曰く」と注がつけられている部分が多く、傷寒論について書かれたあらゆる時代の本を手に入れられる限り手に入れて、渉猟したのではないだろうか。



22.傷寒論 序−巻10  張 仲景:著 

  江戸時代 古活字版
   「傷寒卒病論集」の仲景自序に始まり、「巻十・辨發汗吐下後病脉證并治法第二十三」(第二十二の誤り)まで収められているが、「辨シ湿?脈証第四」の「痙」がやまいだれに至のシと書く。この部分『金匱玉函經』では痙(けい)を使う。この本には、赤字で修正がたくさん入っているが、ほとんどの見出しで「病」「法」の文字がぬけているのを直されている。赤字は修正や書き加えのほか、書名には二重線、薬方名には傍線、生薬名には傍線と君臣佐使、また本文には句読点も打っている。巻末に、新刊という文字を○で囲んで「傷寒論巻之十終」としている。誤りの多い刊本の第一刷ででもあったのだろうか、残念ながら刊記の類はないので、いつごろのものかははっきりしない。赤字以外にも、生薬の役割などについての書き入れがあり、見ているとおもしろい。



 

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