研医会通信  145号 

 

 2017.7.14
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研医会図書館は近現代の眼科医書と東洋医学の古医書を所蔵する図書館です。
この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

今回は 『眼科診断学 』 です。

『眼科診断学 』    

 昔の医家、殊に臨床医家は“見立" が最も大事であるとした。その“見立" は経験の積み重ねによって体得され、 しかもそれは直覚的判断であった。

 検眼鏡は眼球内の疾患を精確に診断することを可能にしたように、眼の検査に、眼の生理、解剖の知識が採り入れられ、薬物の発見、その他諸器械が発明され応用されるにおよび益々診断上の精度を期することができるようになった。

 わが国においては明治の初め須田哲造(長野の人、本姓を細井氏といい、須田経哲氏門人、須田家を嗣ぐ、明治9年東京医学校卒、小石川に明々堂眼科を開設、(1848~1894)氏の著述の中に『眼科診断学』が挙げられているが、その後、明治20年頃までは他に同種の成書は出版されなかったようである。

 本書はこうした時期、実地医家や初学の人のため纂訳されたものである。 本書は、その緒言に「オーストリーのウイルヘルム、チェルマック(Willhelm Czermak)、氏が著ス所ノ『眼病症候学及診断学』ヲ基礎トシ、側ラ諸書ヲ渉猟シテ其粋ヲ抜キ、 コレニ余ガ卑見ヲ参ヘテ門生諸子ノ為メニ講述シタ筆記ニシテ…」とあり、チェルマックの原著、宮下俊吉(1860~1900)纂訳である。183頁、全1冊(188× 12.8cm)活版、精図5箇よりなり、やや小型本ながらチェルマック氏『診断学』を基礎とし、宮下俊吉氏が欧州留学中(明治18~22年)学得した新説と帰国後収集した実験とを加え、纂訳したわが国における初めての眼科診断学の成書といわれている。  

 本書の内容は通論と各論よりなり、眼科診断を簡潔にまとめたもので、その項目により抄記すると以下の通りである。

 

   『眼科診断学』 完

   通論

      日光ヲ用ユル視診

      人工光線ヲ用ユル視診

      触診

      器械的診法

      眼外筋機能検査

   各論

      眼瞼 附涙器

      眼球全体

      結膜 撃膜 角膜 前房 虹彩 瞳孔 水晶体 硝子体

 

 このように本書は専ら眼の外表に発現する諸病の症候及び診断法について述べたもので、検眼鏡用法、視機検査法等を要する眼底諸病の診断法には論及されていない。また、本書の目的は眼科初学者のために纂訳したもので繁縛を省いて簡易を旨とした、 とその序に 述べられている。

 本書は明治25年(1892年)5月に初版が出版されてから幾何もしないで絶版となったが、明治32年(1899)に宮下左右輔(宮下俊吉氏長男、1882~1948)氏によって増補訂正され、増訂第2版として出版された。さらにこの増訂第2版はその出版よりおよそ13年経った明治45年(1912)に宮下左右輔氏によりこの第2版診断学を骨子として、Th.Axenfeld、の“Lehrbuch der Augenheilkunde”(2Auf 1910)と A EIschnig、の“Funkdonspruefung des Auges”(1911)を経緯に編成され、増訂第3版『眼科診断学』(上。下)として半 田屋医籍商店から発兌された。

 このように本書は専ら実地医家に最も必要とされる診断、検査法に重きをおき、簡潔を旨とした眼科診断書で、わが国の眼科診断学の成書として第1書と看倣されている。

 纂訳者宮下俊吉氏は万延元年(1860)5月但馬国(兵庫県)城崎郡府中市場村に生れ、本姓を国谷氏といい、宮下慎堂(大学東校助教授海軍々医大監)氏の養子となる。明治17年(1884)東京大学医学部を卒業、スクリバ (Julius Karl Scriba、18481~1905)の外科助手 となる。翌明治18年(1885)12月、眼科修業のため河本重次郎(1859~1938)氏、大西克知(1865~1932)氏らとドイツ国に留学、フライブルグ大学のマンツ(Manz)教授、 ウルツブルグ大学にてミッヘル(Michel)教授に師事して眼科を修め、明治22年(1889)2月帰国し、 日本橋本材木町に開業、同24年(1891)京橋因幡町に転じ、当時東京における井上、須田、宮下眼科の3大病院の1つとして繁栄した。また、東京慈恵会医学校教授、海軍々医学校教官等を兼任し、 日本眼科学会の創立に尽力した。宮下左右輔氏は明治15年8月、宮下俊吉氏の長男として東京で生れ、、明治39年東大を卒業、河本重次郎教授に師事、同41年1月渡欧、フライブルグ大学のアクセンフエルド(Axenfeld)教授の下に修業、同43年帰国、大阪医大教授となり、その後診療所を開設、東京女子医専教授を兼任した。また、国際眼科学会への日本代表として出席し、国際的にも活躍された。

 

 

主な参考文献

日本眼科学会: 医学士 宮下君墓誌.日眼5、No.1、東京、1901

河本重次郎: 回顧録 河本先生喜寿祝賀会 東京、1936

岩崎克己: 河本重次郎伝.長崎書店 東京 1943

小口忠太: 日本眼科五十年略史(1~ 3) 綜眼38 599、711、832、東京、1943

福島義一: 日本眼科全書 1. 眼科史 金原出版 東京 1954

宇山安夫: わが銀海のパイオニア 359. 千壽製薬、大阪、1973

増田寛次郎: 東京大学医学部眼科学教室百年史 同創立百周年記念事業委員会 東京1989

 

 

 

 


 

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図1 『眼科診断学』表紙 明治25年(1892)刊

 

 

 

 

 

 

 



中泉、中泉、斎藤 1990