研医会通信 193号 

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この研医会通信では、当館所蔵の古医書をご紹介いたします。

2021.5.26

今回は 謨私篤眼科発蘊 です。

 謨私篤眼科発蘊

 

 天保14年(1843)に和田泰然を佐藤泰然(1804~1872)(文化元年、武蔵川崎在、稲城に生まる。幼名を田辺昇太郎。文政5年、田辺庄衛門を名乗り、天保6年、和田泰然と改め、天保14年、佐藤泰然と名乗る。と改め、江戸薬研堀から下総(現千葉県)佐倉に移住し、同地にわが国の私立病院の魁をなした順天堂を設立し、外科を中心に新術を施し、また、子弟の教育を行った佐藤泰然についてはよく知られているところである。泰然の翻訳

眼科書『謨私篤眼科発蘊』を紹介する。

 

 本書は佐藤泰然が和田姓を名乗っていたころ、つまり天保6年(1835)から同14年(1843)の間に訳述し、竹内玄洞(1805~1880)校によって作成されたとみられ、謨私篤(モスト、莫私土、穆斯篤の当て字もある。Georg Friedrich Most、1784~1832)の「医学百科全書」(Encyklopadie dergesammten med、u.chir.Praxis訳.蘭本はEncyclo―pedischWoordenboek derpractische GeneHeese―len Verloskunde dooro IE5巻、 1835-1838年、 続2巻、1838~1839年、アムスデルダム、C.Go Sulpke発行)のなかから眼病の部分だけを取り出して訳出されたものと思われる(順天堂史、上巻)と伝えられている。

 

  次ページの掲出本は2種類であるが、いずれも写本で、1本は全1冊(24.5×17cm)、和紙32葉、他の1本は全1冊(24.5×17cm)、和紙44葉。それぞれコヨリにて2か所を袋綴じし、漢字、片仮名混りの和文で書かれたもので、その内容はそれぞれの目次によると以下の通りである。

『眼科発蘊』

喎蘭 穆私篤著

東都 和田泰然訳稿

〔目次〕

伊)聖京倔性眼焮衝

呂)楼麻質斯性眼焮衝

波)麻疹毒眼焮衝

仁)狸絨熱眼焮衝

保)痘毒眼焮衝

辺)が癬様眼焮衝

登)凛症性眼焮衝

知)痛風性眼焮衝 急性及び慢性症

里)徹毒眼焮衝 之を区別して四種

奴)月経墾塞に起因する眼焮衝

留)疾痔眼焮衝

遠)ガヽ兒眼焮衝

和)初生兒眼焮衝

加)老人に発する眼焮衝

興)失荀兒倍苦眼焮衝

太)越支布的昆答幾屋散眼焮衝

『眼科発蘊』 眼焮衝 角膜雲暗及汚點

唱蘭 莫私篤 1838年

〔目次〕

イ)聖京倔眼焮衝

口)〇(桜のきへんをにんべんに)麻質私性眼焮衝

ハ)麻疹毒眼焮衝

二)狸絨熱眼焮衝

ホ)疥癬様眼焮衝

へ)凛症性眼焮衝

卜)痛風性眼焮衝 急性及び慢性症

チ)梅毒性眼焮衝

リ)月経壅塞に起因する眼焮衝

ヌ)痔疾眼焮衝

ル)小兒眼焮衝 生歯時において発する症

ヲ)初生兒眼焮衝

ワ)老人に発する眼焮衝

力)失荀兒倍苦眼焮衝

ヨ)越支布的 昆答幾屋散 亜細亜扶加の眼焮衝

夕)痘毒眼焮衝

レ)痘毒より発する眼焮衝

角膜汚勲及び雲暗症

 

 このように掲出本は写本で伝えられたもので、両者の間には内容の差異はほとんどなく、各症の徴候、誘因、治法の順に記述されている。

 

 泰然は外科を専門として名声を博したが、なぜ眼科書の記述も行ったのであろうか。一説によると泰然が長崎に蘭語と蘭医修業で遊学のころ(天保6年9月~同9年3月)、たまたま泰然は眼病を患っていた関係上、眼科医を志望してこの治療法についてぜひ泰西の蘭学を学ぶ必要があった(蘭学全盛時代と蘭疇の生涯、p.13)ともいわれているが確証はない。

 

 ともかく、本書は眼病のうち、焮衝眼(急性または結膜炎)を主とする訳述であるが、19世紀初頭のヨーロッパ眼科をわが国の幕末に移入紹介した翻訳眼科書の1つである。

 

 

主な参考文献

1)鈴木要吾: 蘭学全盛時代と蘭疇の生涯.東京医事新誌局、1933

2)村上一郎: 蘭医佐藤泰然一その生涯とその一族門流.房総郷土研究会、1941

3)藤井尚久: 本邦(明治前)著名医略伝(明治前日本医学史第5巻). 日本学士院、1957

4)藤井尚久: 本邦(明治前)医事文化年表(明治前日本医学史第5巻).日本学士院、1957

5)順天堂:順天堂史. 上巻、順天堂、1980

  


図1 『眼科発薀』表紙 その1

 

 

図2 『眼科発薀』表紙 その2 

 

 

 

 

 

  斎藤仁男  中泉行信  中泉行史  2001