研医会通信  220号 

 2023.8.30
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研医会図書館は近現代の眼科医書と医学関連の古い書物を所蔵する図書館です。
この研医会通信では、当館所蔵の資料をご紹介いたします。
5月からは『臨床眼科』の記事から離れて、いろいろな資料をご紹介しています。

今回は 『用薬須知』です。

 

     

 

                                       図1 『用薬須知』 松岡恕庵

 

飯沼慾斎、小野蘭山とつづいたので、今月はさらにその蘭山の師であった松岡恕庵の書を取り上げたいと思います。

 

 松岡恕庵は怡顔斎(いがんさい)という号を名乗っていました。「怡」は「よろこぶ」と読み、ニコニコ顔をした人物が思い浮かべられるような名前です。この号を名乗り始めたのは、40代後半、本草学の師である稲生若水をなくし、世間が若水の後を継ぐ者として恕庵に注目した頃です。もともとは当代随一の朱子学者・山崎闇斎の弟子となり、儒学や神道を学んでいましたが、さらに伊藤仁斎の古義堂でも古義学を習い、医学の講義を浅井周璞の養志堂で受けます。仁斎の古義堂では、稲生若水も学んでおり、この塾での交流が恕庵を本草学へと進めていったようです。

 

 稲生若水と松岡恕庵が本草学の目的で野外に出て植物などの採集をしていたらしいことは、『用薬須知』(1726)の序文や、二人とそれぞれにやり取りしていた貝原益軒の書簡などから読み取れるそうで、江戸の本草家たちの活発な交流が想像できます。加賀藩儒者役として『庶物類纂』の編纂を手掛ける稲生若水は、この本を単なる本草書ではなく、その物に付随しているあらゆる情報をもまとめ上げようとしていました。動植物としての分類、歴史上のいわれ、古い典籍に現れた文章、医薬としての役割、地方によって名づけられた異名など、多くの情報を載せた博物学の書が目指されていました。しかし、残念なことに312巻を編んだところで若水は亡くなってしまいます。

 

 この師の中途で終わってしまった大仕事を、当時の人々は松岡恕庵が継ぐべきと考えていました。当時、加賀藩の侍医であった小瀬復庵という人物が恕庵と対談したことを新井白石に語っていた内容をみると、恕庵自身も『庶物類纂』の編纂が中途半端になってしまったことに心を痛めてはいるものの、この事業を成し遂げるためには、儒学的素養、医学の知識を備え、群書に通じた学者が幾人か必要であるばかりでなく、多くの情報提供者も必要であるので、自分ひとりではできない、と考えていたようです。

 

 この、恕庵が考えていた情報提供者、という考えは、現代ではシチズン・サイエンスという言葉で、表されます。確かに、植物や動物の分布や、異名など、数名の調査員では間に合わず、全国に多くの協力者が必要です。そうしたことを古義学や朱子学を学んだ恕庵が発想したというところが、とても面白いことだと感じられます。

 

 協力者に対してはいつでも質問していいよ、という優しい顔が必要で、「怡顔斎」の号もそうした自覚の上からつけたものと思われます。将軍吉宗の命を受けて江戸に出向いた恕庵は本草学の第一人者として、国内に流通する薬種の名称を定める役目につきますが、この頃からは自ら野外調査をすることはなく、全国から集まる門人を通じて情報収集をするようになりました。『用薬須知』の序文には、この本の説に疑問のある者は遠慮なく恕庵を訪ねて質問してほしいとありますが、博物学を進めるには、一般人の広い地域からの参加が必要だったのでしょう。牧野富太郎翁が、全国からの標本の束の山とともに写った写真などをみると、松岡恕庵もまた、このような多くの情報集めを目指したのではないか、と想像できます。

 

参考図書  太田由佳:著『松岡恕庵本草学の研究』(思文閣出版 2012)

 

 

 

    図2  同本 目次の最初  

      図3  目次つづき
     図4  目次つづき

    図5  同本 目次の最後と巻頭