2019.6.12
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2019年科学技術週間展示会 「長崎に関わる本」―輸入西洋科学書と翻訳書―

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 1~7  長崎大学名誉教授  相川忠臣 (あいうえお順)
 11~16  九州大学名誉教授、研医会研究員  ウォルフガング・ミヒェル  
 17~22  住友史料館主席研究員  海原 亮  
 23~26  熊本県立大学准教授  大島明秀  
 27~39  横浜薬科大学教授  梶 輝行  

       1~7  解説文執筆
 
長崎大学名誉教授  相川忠臣

1.『牛痘小考』 楢林宗建:著 得生軒蔵 1冊。1849年

 

 

1847年、佐賀藩鍋島直正公は牛痘をバタヴィアから取り寄せるように、藩医で出島の医師でもある楢林宗建を介して商館長レフィスゾーンに依頼させた。病気がちなレフィスゾーンは医師の不在に音をあげていたので給料を二人分にして医師を招こうとした。これに応えて1848年、オットー・モーニッケが牛痘苗をもって出島に赴任した。天然痘は子を持つ親にとり、恐ろしい病気であった。乳児の口内、咽頭まで痘が波及すると哺乳できなくなり、乳児死亡率は5割を超えた。生き残ってもあばた(かさぶたの跡)のために見目麗しさを失なった。

モーニッケが1848年到来時にもたらした牛痘漿は、長い航海で失活し、接種しても萌生しなかった。宗建は人痘の場合、痘痂(かさぶた)を用いれば数か月たっても萌生するので、牛痘苗も痘痂で運ぶように提案した。1849年には牛痘漿以外に、蘭領インド軍ボッシュ医務局長が自分の子供から採取した痘痂も送られてきた。モーニッケはその痘痂を溶いた液を3人の子供に、ランセットを用いて右腕に、ランセットを使わず発泡を利用して左腕にそれぞれ接種した。3人の内、宗建の子建三郎の右腕にのみ美痘が萌生した。その痘漿を3児の腕に植え継ぎ、全て萌生、ついで子供の腕から腕へと植え継がれていった。

モーニッケは江戸町蘭通詞会所を定期的に訪れ、医師たちに種痘の方法を伝授し、医師たちが連れてきた子供たちに接種して日本国中に広めようとした。楢林宗建は、藩主鍋島直正公に牛痘導入の成功を報告した。直正公は牛痘を世継ぎの淳一郎君の腕に植えさせ範を示したので、佐賀藩で種痘が広まった。あばたのあった直正公は彼の子女を罹患させたくない思いが強かった。江戸の貢姫にも種痘させたことがきっかけとなり、モーニッケ痘苗は関東、東北、北海道にまで広がった。『牛痘小考』は急速な種痘の全国普及に大いに貢献した。

 

 

2.『済生備考』杉田成卿纂述、天真摟蔵版、2冊。1850年

 

 

オットー・モーニッケは牛痘の普及に成功し、呼吸器と循環器の診断を可能にした聴診器をもたらした日本近代医学のさきがけである。さらに楢林宗建の「磨尼缼(モーニッケ)對談録」にあるように、クロロホルム吸入法による無痛外科手術の情報も伝えている。このようなモーニッケのもたらした西洋近代医学の新たな発展の内容は『済生備考』により全国に浸透した。“麻酔”という言葉は『済生備考』に始まる。長崎からの情報源は蘭通詞品川梅村である。彼は杉田成卿にモーニッケの聴診器を模造して贈っている。その際モーニッケの聴胸器用法畧説も添えたと思われる。

第一巻の内容は、

1.牛痘畧記。『モスト医事韻府、Most, Georg. Friedr., Encylopedisch woordenboek der practische genees-, heel- en verloskunde. Amsterdam 1838』から、牛痘についての解説を翻訳している。

2.モーニッケが1848年1月15日に記した聴胸器用法畧説の翻訳と品川梅村が模造して成卿に贈った聴診器(聴胸器)についての詳細な構造の説明である。

第二巻の内容は.

亜的耳(エーテル)吸法試説と吸硫酸亜的耳之装置(五図)からなる。その原典は「シュレジンゲル著、サルロイス蘭訳:硫酸(硫黄)エーテルの吸入法が人と動物に及ぼす影響について:Schlesinger, J., Over den invloed der inademing van den zwavel-aether op menschen en dieren. Naar 2e Hoogd. uitg. verm. door J. Sarluis. ’s-Gravenhage 1847」である。エーテルの製法は簡単である。硫酸により2分子のエチルアルコールが脱水縮合するとジエチルエーテル(エーテル)となる。従って化学構造に硫黄zwavelを含まないが、硫酸エーテルという訳語を用いている。エーテル吸入装置図は原典からの転載である。

 

 

3.『七新薬』 司馬凌海:著、文久2年刊。尚新堂蔵。3冊。

 

 

4.『朋百氏薬論』 蘭、朋百(ポンペ):著。司馬凌海:譯並注證、

明治2年刊。文苑閣蔵。2冊

 

ポンペの薬物学講義録と『七新薬』

日本近代医学教育の父J.L.C.ポンぺ・ファン・メールデルフォールトは講義内容の正確な伝達に配慮し、定評のあるオランダ語教科書から重要部分を抜粋して講義のためのノートを作成し、それに基づいて講義をしている。講義終了後そのノートを弟子たちが手分けして翻訳し、書写されてポンペの各科の日本語講義録が広まった。ポンペの教えた日本初の近代薬物学講義の翻訳は、松本良順の命により司馬凌海が担当した。通論1巻と各論5巻からなる「薬物学」は江戸の西洋医学所でも使用された。

凌海はこれとは別にポンペの講義内容に自分自身の注を加えて、当時大量に輸入されていた梅毒治療剤ヨードカリウムと解熱剤キニーネをはじめとして、硝酸銀、酒石酸(吐酒石)、駆虫薬サントニン、麻酔薬モルヒネ、滋養剤肝油についての『七新薬』を文久2年(1862)に出版し、広く読まれた。ポンペの怒りをかったのか『七新薬』の出版前文久元年に、司馬凌海は松本良順の門人録、登籍人名小記から有罪除籍されている(後復籍)。しかし『七新薬』は最終的に1862年、関寛斎の校閲を受けて出版され、ポンペ自身も『簡約薬物学提要、Pompe van Meerdervoort, J. L. C., Beknopte handleiding tot de geneesmiddelleer, Desima, ter Nederlandsche Drukkerij, 1862』を出島出版所から出版している。各科目のオランダ語講義録中唯一つの出版である。『七新薬』はポンペ自身が講義録を出版するきっかけとなった因縁の書である。司馬凌海は明治二年(1969)になって『朋百氏薬論』2巻をポンペの『簡約薬物学提要』の総論のみを翻訳し注證を加えて出版した。慶応元年の日付のある序に松本良順の命によりポンペの薬物学は司馬凌海の担当となった経緯が書かれている。各論部分は『簡約薬物学提要』の翻訳ではなく、明治2年、『朋百氏薬性論(学)』2巻としてポンペの「薬物学」講義録の各論からの抜粋に注證をつけて出版された。

 

 

5.「甫謨百先生原病論」(ポンペ病理学総論)、江戸末書写、3冊

 

 

ポンペの病理学総論(Algemeene ziektekunde)オランダ語講義ノートから、その主要な原典は神経生理学者ブートケの『生理学に基づく病理学総論、Budge, Jul., Algemeene pathologie, gegrond op physiologie. Uit het Hoogd. vert. door A. G. van der Hout en J. J. Souter. Utrecht enz. 1846』であった。ノートの翻訳である原病(総)論は、「1.誘動篇(体中各部交感)、2.病徴論(運動・行血器、呼吸器、滋養器、泌尿器、蕃殖器、覚知・感触・意思之疾患)。3.養衛分泌の病的変化を論ず。4.身体及其諸器械の異形を論ず。5.外因の失常の病原となるを論ず。6.体中機運の変じて病因たるものを論ず。7.産業と病籍。8.居所による。9.八質各箇性。10.疾病蔓延及び経過を論ず。」からなる。ポンペの病理学総論は、生理学及び化学と病理学の境界領域、新しく発展した病態生理学と病理化学の内容を含んでいる。

1).生理学の講義で新興の神経生理学を教えていなかったポンぺにとり、ブートケの教科書冒頭にある誘動篇は神経生理学を補いたい彼の意図にかなっていた。

2).病徴論の覚知・感触・意思之疾患で詳細な神経系の病態が教えられ、充実した神経系の病態生理学となるように配慮されている。

3). 養衛及分泌の病的変化を論ず”の章には血液成分の病的変化、“排泄物の変化を論ず”の章に尿成分の変化についての病理化学的内容が述べられている。ポンペは1862年帰国直前に内科臨床講義を終了するにあたリ、病理化学の内容を基礎に、必要な検査項目を網羅して整えた近代臨床検査学講義をしており、医師たちが病気を診断するために有益であったと推察される。

4). 5から10の内容は現在の衛生学に近い内容である。実際に非衛生的なゴミ集積場や溝等の現場を見学させるなど、ポンペは衛生学に力を入れている。日本人がおこなうべき、肉食、牛乳の導入といった食生活改善と、風土に合った暮らし方を具体的に教えていたと思われる。弟子の松本良順や緒方惟準は肉食、牛乳の導入とその定着に尽力している。良順は『養生法』1864で日本人の食事改善や暮らしのあり方を詳述している。養生所建設にあたってはポンペの指示通りに換気に特別な配慮をし、病院食に肉食を導入した。明治維新後、良順の建てた早稲田の蘭疇医院では牛乳が提供された。

 

 

 

6.ウンデルリヒ著、病理学各論・治療学提要 Wunderlich, C. A., Handleiding in de studie der bijzonder ziekte- en genezingsleer. Utrecht, 1859.

 

 

ボードインの臓器別内科学講義の原典の一つ

ボードイン(A.F. Bauduinはポンぺ・ファン・メールデルフォールトの跡を継ぎ1862年から1866年まで長崎養生所(後に精得館と改名)で教えた。彼は、ユトレヒト陸軍軍医学校で15年間教え、その間に生理学教科書を執筆、外科手術学や検眼鏡の手引きなどの専門書を翻訳した練達の教官であった。自然科学に立脚した近代医学の大要はポンぺによって教えられたが、ボードインは検眼鏡後、網膜疾患が明らかとなった近代眼科学、新しく誕生した神経生理学、膀胱鏡、子宮鏡や染色技術によって発展した腎泌尿器学と婦人科学を長崎、大阪、東京で教えた。

ボードインの内科学講義は臓器別であることに特徴がある。『抱氏病理内科各論』あるいは『抱氏内科各論』として流布している。1.呼吸諸病と2.心臓大血管はニーマイエルによる。2の内容にさらに日本に多い脚気(脚気心)を加えている。 3.消化器諸患、4.肝、脾、膵、腹膜、5.泌尿器、6.男性生殖器、女性生殖器、乳房疾患、7.血液諸病と中毒諸病、8.急性皮膚病  9.血液変調病(黄疸と尿毒症)、皮膚病.10.神経系はウンデルリヒによっている。

慶応2年(1866)8月まで1年8カ月長崎でボードインに学んだ橋本綱常によれば、ボードインの内科の講義はNiemeyer第一版によるという。ドイツ語4版を蘭訳したオランダ語初版Felix Niemeyerの Leerboek der bijzondere pathologie en therapieであろう。ニーマイエルの書は徹底した臓器別の内科学である。オランダ語初版は4冊、1860年と1863年に出版されている。一卷の1は呼吸器、心臓大血管、一巻の2は消化器、肝臓,胆管、脾臓の内容である。 二卷の一は、泌尿器、生殖器、二卷の2は神経系、皮膚、運動器、体質性疾患(感染症、栄養障害)の内容である。ボードインの内科学の内容とニーマイエルのドイツ語版5版(1863)と比較検討すると、呼吸器、心臓大血管のみがニーマイエルと一致した。ボードインが1862年に赴任したときニーマイエル既刊の巻のみを持参し、1863年発行の巻の本邦舶載はかなり遅れた可能性がある。疾病の基本形、組織病理と臓器別疾患からなるウンデルリヒC. A. Wunderlich の内科書Handleiding in de studie der bijzondere ziekte- en genezingsleerを調べるとボードインの臓器別疾患の多くがウンデルリヒによるものであった。ドイツ語版の蘭訳本の出版は1859年であり、1861年本邦に舶載され、長崎留学中の佐藤尚中が喀血篇、チフス篇を翻訳している。ポンぺも1860年初頭から始まり1861年10月頃までに終了した内科学講義に一部引用した可能性がある。ウンデルリヒの書は局所性、全身性病変の基本形に始まり、組織病理に、細胞・結合組織・膜の疾病、皮膚病、筋・骨・軟骨、血管リンパ系、神経組織があり、臓器別の疾患各論に神経系、頭・顔の皮膚、呼吸、心臓大血管、消化器、肝脾膵腹膜、泌尿器、生殖器があり、体質性疾患に血液諸病、中毒、急性伝染病が含まれている。

抱氏病理内科各論8巻の臓器別内容を抱氏内科各論の順序に並び替えて、ニーマイエル、ウンデルリヒのいずれに由来するかを以下に示す。

ポンぺの『原病各論』(長崎医科大学貴重図書124)を調べると、炎症の中に各器官の炎症をまとめるなど臓器別の内科学ではない。ボードインが初めて臓器別(器官系統型)の内科学を教えたのである。その原典はウンデルリヒとニーマイエルの内科書である。ニーマイエル二巻の蘭語版(1863)はおそらく未着であったので、ウンデルリヒを主に使用したと考えられる。ウンデルリヒとニーマイエルの内科書の日本への影響を見てみると、佐藤尚中は1861年長崎留学中にウンデルリヒの内科書を読み、早速肺諸病(喀血篇)を翻訳した。関寛斎の長崎在学日誌によれば養生所で尚中が喀血の講義したとある。佐倉養生所でもウンデルリヒの内科書を隔日講義した。晩年の尚中はオランダ語新版のニーマイエルの内科書翻訳に全精力を傾け、その翻訳『済衆録』の出版直前に逝去した。関西においてもニーマイエルの内科書は重視され、新宮凉民,凉閣が翻訳した『仁墨児内科則』がある。臓器別(器官系統型)の内科学がいちはやくボードインによって教えられ、日本に多大の影響を与えたのである。

 

 

7.コステル著 基礎人体生理学 

Koster, W., Grondbeginselen der nattuurkunde van den mensch.Vrij bew.naar het Fr. van J. Bèclard.Tiel,1862.

 

 

ボードインの生理学講義の原典

1862年10月末長崎に到着しポンペの跡を継いだボードイン(A.F. Bauduin)は、F. C. Dondersと共著で『人体生理学提要Handleiding tot de natuurkunde van den gezonden mensch Utrecht 1851,53を著している。二人の教え子であるポンペは、この本を生理学講義の原典として利用した。2巻からなる名著であり、ドイツとロシアで翻訳出版された。しかしドンデルスが教科書出版を義務付けていたユトレヒト陸軍医学校からユトレヒト大学の生理学教授に栄転したために、神経生理学と生殖を含むはずの第3巻は出版されなかった。ポンペは生殖は教えたが、新興の神経生理学は教えなかった。ボードインは神経生理学を含む出版されたばかりのコステルの書を携えて来日したのであろう。長崎における生理学講義録(長崎医科大学貴重図書N.119、人身究理書)は、植物性機能、動物性機能と生殖機の3篇を包括する。その章立ては一部を除けば植物性機能、動物性機能と生殖の3篇からなるコステルの『人体生理学提要』とよく一致する。新興の神経生理学を教えたのはボードインが最初である。人身究理書の神経生理学の内容は、触覚之論(知覚の総論的内容)、鼻管の論、味神経之論、聴管之論、筋運動之論、声音談話等の筋作用、神経論、顕微鏡上の神経之論、脳神経官能之論、脳実体之論、脊髄及び神経之論、交感神経之論であり、コステルの章立てとよく一致する。最後の論生殖器之機能は簡略である。

展示の『菩氏生理記聞』3巻は最初に植物性官能、動物性官能と生殖機の3篇からなることが書かれているが、植物性官能のみである。明治7年(1874)に出版され、東京、大坂、京都三都書肆が取り扱っていてボードインの生理学講義録が明治になっても広く読まれていたことがわかる。

展示の『抱氏人身窮理書』巻上も最初に植物性官能、動物性官能と生殖機の3篇からなることが書かれているが。植物性官能の一部のみである。

ボードインは帰国直前1870年末に東京大学の前身、大学東校で司馬凌海の通訳で神経生理学の講義をし、『日講紀聞』として出版された。島村鼎甫の序文から、神経生理学を講義できるのはボードインしかいないと考えての依頼であったことがわかる。江戸医学所で学んだ石黒忠悳は『懐旧九十年』でよく読まれた医学の蘭書を列挙し、生理学ではコステルを挙げている。

 

8菩氏生理記聞

 

 

9.抱氏人身窮理書 巻上1冊  抱道英(ボードイン):口授

 

 

10. 日講記聞

 
    

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