研医会図書館 2019春 展示会解説 

 2019.7.26
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2019年科学技術週間展示会 「長崎に関わる本」―輸入西洋科学書と翻訳書―

このイベントは終了しました。ご来館ありがとうございました。

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 1~7  長崎大学名誉教授  相川忠臣 (あいうえお順)
 11~16  九州大学名誉教授、研医会研究員  ウォルフガング・ミヒェル  
 17~22  住友史料館主席研究員  海原 亮  
 23~26  熊本県立大学准教授  大島明秀  
 27~39  横浜薬科大学教授  梶 輝行  

 
 

27~39の解説

梶 輝行  横浜薬科大学教授

 

27. ゴルテルの蘭書

 

 

ヨハネス・デ・ゴルテル Johannes de Gorter(1689-1762年)

 

 ゴルテルは、1689年2月19日オランダの港町エンクハウゼンEnkhuizenで生まれた。その後同町の外科医のもとで外科術の修業をはじめ、やがてハールレムHaarlemの外科医ファン・デン・ホウトTjalling van der Houtに学び、19歳で資格試験に合格し、エンクハウゼンの外科医の資格を得た。1709年9月9日、ライデン大学医学部に入学し、ここでブールハーヴェ教授の講義にも出席し、1712年6月31日に論文審査を経てMDを取得し、同大学を卒業した。その後、エンクハウゼンに帰り、そこで内科医として開業した。産科に関する研究で医学博士の学位をライデン大学で取得し、当地で13年間にわたり産科臨床学を修めた。1725年6月12日からハルデルウェイクHarderwijk大学教授となり、翌年正教授となり同大学評議会はPhDの学位を授与した。その後、ゴルテルは同大学で4回学部長を務め、専門の産科のほかに化学や植物学などの講義も担当した。当時のオランダはブールハーヴェの全盛時代であり、ゴルテルのもとで後に植物学の大家となるカール・フォン・リンネCarl von Linneが学位を取得した。1754年から1758年の期間、ロシアのエカチェリーナ女王の侍医となって、長男のダビド・デ・ゴルテルDavid de Gorterとともにペテルスブルクに赴任した。年俸2,000ルーブル、退職後の年金2,500ルーブルなど破格の待遇で迎えられた。1758年、ゴルテルはオランダに帰り、ウェイク・ベイ・ドュールステデWijk bij Duurstedeを終の棲家とした。1762年9月11日、ゴルテルは同地で73歳の生涯を閉じた。

 ゴルテルの著書は、石田純郎氏の調査(『オランダにおける蘭学医書の形成』)によると28種類があり、そのうち4分の3がラテン語、その他がオランダ語の著作であるという。

今回紹介する蘭書は、1744年にアムステルダムで出版した内科書である『簡易治療術書』(Johannes de Gorter: “Gezuiverde geneeskonst, of kort onderwys der meeste inwendige ziekten : ten nutte van chirurgyns, die ter zee of velde dienende, of in andere omstandigheden, zig genoodzaakt vinden dusdanigeuziekten te behandelen.”  Amsterdam, 1744である。この書名を和訳すると、『精選内科術。海戦や野戦への従軍あるいはそれ以外の場面に遭遇した外科医の利用に供するための多様な内科疾病に関するハンドブック』となる。同書は扉の表紙のとおり初版本にあたるが、本館には別に1761年刊行の第3版も所蔵する。1744年初版本は全264頁、縦21.0㎝・横13.5㎝であり、1761年第3版本は全305頁、縦22.0㎝・横13.5㎝である。

 
 

ゴルテルのその他の著書としては、1731年にライデンで刊行した『簡易精製薬術書』(Johannes de Gorter: “Gezuiverde geneeskonst.” Leijden,1731、第2版が1746年ライデンで、第3版が1762年アムステルダムで刊行)があるが、国内での所蔵は確認できない。

オランダ・ハーグ国立中央文書館所蔵の日本関係文書によると、ゴルテルの蘭書の長崎への舶載は、1806(文化3)年の入港蘭船(アメリカ号、中立国傭船)の積荷リストにみえ、正式な注文に応じて対応された初見と考えられる。それ以降の蘭船の積荷リストにもゴルテルの著書は注文に応じて多数もたらされたことがわかる。

現在、江戸幕府旧蔵蘭書を所蔵する国立国会図書館には所蔵がなく、宇田川玄随がゴルテル蘭書を筆写した『宇氏秘笈』が所蔵されている(同館デジタルコレクションより)。他に静嘉堂文庫には同書名で宇田川玄真の筆写本4冊も大槻文庫本として所蔵されている。また、1744年初版本は、本館以外に天理大学図書館の所蔵にかかるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

● ゴルテル『簡易治療術書』の翻訳書

 

28.宇田川玄随(うだがわげんずい)訳『西説内科撰(せいせつないかせん)要(よう)

 
 

今回展示する本書は、宇田川玄随がゴルテルの『簡易治療術書』を翻訳した『西説内科撰要』である。本書は、寛政5(1793)年から文化7(1810)年までに全18巻55篇320章からなる『西説内科撰要』として出版され、この訳書が西洋内科を日本に初めて紹介した書物として有名である。この原書は、”Gezuiverde geneeskonst, of kort onderwys der meeste inwendige ziekten : ten nutte van chirurgyns, die ter zee of velde dienende, of in andere omstandigheden, zig genoodzaakt vinden dusdanigeuziekten te behandelen. Amsterdam, 1744. ” であり、1744年の初版本からの翻訳である。

本書の内容は、7篇55項目を全18巻で上梓し、「発無定処」「病属頭脳」「病属頚項」「病属胸膈」「病属腹肛」「病属尿道」「病属皮表」の7篇からなる。病気の症状による分類がほとんどであり、病症の定義、原因、鑑別、結果、療法が各篇各項目で著述されている。翻訳した玄随は本文中に多数の細字割註を施して解説を付している。その解説の出典は、『解体新書』からの引用と注釈が目立つが、全体では約30種類の書物にあたっていることがわかる。不備のある点はそのあとの『増補重訂西説内科撰要』に引き継がれることになった。

本館所蔵本は、体裁は縦25.7㎝・横18.0㎝、四周単辺、片仮名交文、全18巻の版本、第1巻には丹波元簡、桂川甫周(国瑞)、宇田川玄随(晋)の序があり、玄随の序の末尾には寛政4(1792)年に序文が書かれたとあり、「巻一」の巻首には「遠西 玉函涅斯垤我爾徳児 著」「日本 津山 宇田川玄随 譯 醫官法眼 桂川甫周国瑞 閲」とみえる。

宇田川玄随(名は晋、号は槐園)は、宝暦5(1755)年に津山藩医の宇田川道紀の子として誕生し、最初漢学を得意として漢方を学んだ後、安永8(1779)年大槻玄沢からオランダ医学がすぐれていることを聞き、桂川甫周や大槻などからオランダ語や医学の学習に転じた。津山藩の江戸屋敷は、現在の東京駅の南端辺りの鍛冶橋付近にあり、玄随はこの藩邸で生まれ育ち、活動した。ゴルテルの蘭書の翻訳には、約10年を費やして完訳した。18巻のうち最初の3巻は寛政5(1793)年に出版し、全巻の出版は文化7(1810)年のことであった。玄随は寛政9(1797)年12月18日に死去し、浅草誓願寺塔頭の長安院に葬られたことから、本書の完行を見ずして没したことになる。

 

29.宇田川(うだがわ)玄(げん)真(しん)・藤井方亭(ふじいほうてい)訳『増補(ぞうほ)重訂(じゅうてい)西説内科撰(せいせつないかせん)要(よう)

 
 

今回展示する本書は、”Gezuiverde geneeskonst, of kort onderwys der meeste inwendige ziekten : ten nutte van chirurgyns, die ter zee of velde dienende, of in andere omstandigheden, zig genoodzaakt vinden dusdanigeuziekten te behandelen. Amsterdam, 1773. ”であり、1773年の第4版を翻訳したものである。

翻訳者である宇田川玄真は、義父玄随の遺著である『西説内科撰要』を、上記の蘭書を用い、門人の藤井方亭の増訳作業により文政5(1822)年に訳稿を仕上げ、全18巻64篇393章を6冊として編集し、『増補重訂西説内科撰要』の書名をもって刊行した。本書も前書と同様に細字割註が多く挿入され、そこには西洋医学に着目した校合と言及に特徴が現れていて、増補重訂の意味合いを明確にしている。『西説内科撰要』は幕府の蘭方奥医師の桂川国瑞(甫周)と漢方を代表する多紀元簡(桂山)が序を寄せているの対して、『増補重訂西説内科撰要』は宇田川玄随の序文のみである。

本館所蔵本は、体裁は縦25.2㎝・横17.8㎝、四周単辺、片仮名交文、全6巻本である。

宇田川玄真は、明和6(1769)年に伊勢国飯南郡大石村の安岡四郎衛門の子として誕生した。江戸に出て宇田川玄随に漢学を学び、次いで桂川甫周、大槻玄沢のもとで蘭学を修めた。そののち、杉田玄白の養子となったが、放蕩のため離縁され、稲村三伯の仲介で寛政10(1798)年に宇田川玄随の跡を継ぎ津山藩医となった。文化10(1813)年に幕府天文台の阿蘭陀書籍和解御用を命ぜられ、ショメールの『百科全書』の翻訳を担当し、死去するまで同役を務めた。玄真には嗣子がなかったので、大垣藩医の江沢養樹の長男榕庵を養子とし、天保2(1831)年に隠居して家督を譲ったが、同5(1834)年12月4日に死去し、浅草誓願寺に埋葬された。その後墓所は関東大震災ののち多摩霊園に移された。玄真の門人には、坪井信道、箕作阮甫、飯沼慾斎、戸塚静海、藤井方亭らがいる。

なお、藤井方亭は、安永7(1778)年4月28日に、紀伊藩鳥見役から町医者となった藤井周朔の長男として伊勢国庵芸郡野田村に生まれた。父のもとで医学修業ののち、江戸に出て宇田川玄随、宇田川玄真のもとでオランダ医学を修め、浅草鳥越で医師として開業した。藤井は、文化5(1808)年に玄真に随行して加賀藩前藩主の治療で金沢に赴き、翌年12月に加賀藩最初の蘭方医となった。また、文化8(1811)年には、蘭書翻訳御用を命ぜられ、蘭書翻訳に従事するところとなった。弘化2(1845)年8月8日に68歳で死去し、浅草の唯念寺に葬られた。

                                                                                                       

 

 

 

 

30. プレンクの蘭書

 

ヨーゼフ・ヤコブ・エドラー・フォン・プレンク 

Joseph Jakob Edler von Plenck  (1733-1807年)

 

プレンクは、1738年11月28日、オーストリアのウィーンで生まれた(生年には1732年、1733年、1739年など諸説があるが、ここではオーストリアで刊行された伝記辞典に依拠した)。製本業の父親フランツと母親マリア・アンナとの子どもとして最初は家庭で、のちにイエズス会の学校でラテン語を学んだ。1753年に外科医をめざしてヨハン・クリスチャン・レッテルJohann Christian Retterに入門し、その後ウィーン大学医学部で学び、内科医のアントン・デ・ハーンAnton de Häen (1704-1776)につき、また外科医のレーベルLeberや産科医のレマーヒャーLebmacherにも師事した。1753年から1763年まで七年戦争が勃発し、プレンクは軍医として従軍し、砲兵隊の外科医となった。その後大学に戻り1756年に外科医の資格を取得した。1764年に聖マルク病院経営者の娘であるカテリーナ・ソフィア・サルトリーCatherina Sophia Sartoriと結婚したが、この妻も若くして妻が亡くなり、1779年にフランジスカ・オートラスFranzisca Autrathと再婚したが、4人の子どもを残して先に亡くなった。

1770年、ハンガリーに新設されたチルナウTyrnau大学で、理論外科と外科臨床の教師となり、また精力的に論文などの執筆を行った。1777年、この大学は皇后マリア・テレジアの意向でブダペストに移転し、オーフェンOfen大学となり、プレンクは同大学でも教師に就いた。1775年から始まった6カ月間での軍医養成コースを1781年から2年制とし、オーストリア・ハプスブルク家のヨーゼフ二世によって1783年に皇帝の名を冠したヨーゼフ・アカデミーという内科外科学校に拡充された際に、プレンクはここの教師となった。1786年には内科・外科の軍医アカデミーに昇格し、学位を与える権限を得ることになった。プレンクはそこで化学と植物学を教え、後には軍事薬局制度の監察官兼アカデミー永年書記官に就任した。

1797年、フランシス二世の統治下で、プレンクは貴族階級に列し苗字にvonが付与された。その後両足に麻痺を患ったプレンクは現役を引退し、1807年8月24日にウィーンで亡くなった。

プレンクの著書として今回展示する本館所蔵の書籍は、1777年ウィーンで刊行したラテン語著述の『眼科書』“ Doctrina de morbis oculorum. 1777.” である。本書は、わが国では宇田川玄真がマルチヌス・プロイスMartinus Pruysによる蘭訳版から『泰西眼科全書』として翻訳したことで知られる。同書は、眉毛、瞼、涙管、結膜、眼球、光彩、房水、水晶体、硝子体液、及び網膜または視覚の病気について著したものである。本館所蔵のラテン語本は、全219頁で、縦18.0㎝・横12.5㎝の小型本である。

 
plenck著、DOCTRINA de MORBIS OCULORUM
 

本館には、これ以外のプレンクの著書として、以下の3点がある。

“Toxicologia seu Doctrina de Venenis et Antidotis.” Viennae.1785.

“Verhandeling over de Venusziekten.” Dordrecht.1792.

“Specielle medizinisch-chirurgische Pharmakologie, oder Lehre von den Kräften der

 Arzneymittel, welche innerlich und äußerlich bei Heilung der Krankheiten am meisten

gebraucht werden.”  Wien. 1804-1805.

 

これ以外にもプレンクの著書としては、“Doctrina de morbis cutaneis.1776. ”

“Doctrina de morbis venereis. 1779. “ Elementa medicinae et chirurgiae forensis.  1781. ”などが知られている。

プレンクは基本的にラテン語で著述し、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、イタリア語、そしてスペイン語などに翻訳され、人気を博した一方で、プレンクの著述がわかりやすく簡易に表現したことにより医学教育を浅くしたとする批判もあった。

オランダ・ハーグ国立中央文書館所蔵の日本関係文書によると、プレンクの蘭医書の長崎への舶載は、1817(文化14)年の入港蘭船(フラウ・アハタVrouw Agatha号、中立国傭船)の積荷物リストにみえ、長崎奉行牧野大和守の正式な注文に応じて対応されたのが初見と考えられる。それ以降の蘭船の積荷リストにもプレンクの著書は注文に応じて多数もたらされている。宇田川玄真が手に入れた“Doctrina de morbis oculorum.” 1777. は、寛政6(1994)年オランダ商館長ヘンミ―の江戸参府に随行した外科医ケラーが所持していたものを、幕府奥医師で蘭方医の桂川甫周が所望し、大槻玄沢の手許にあったものを筆写した写本から翻訳したものであった。

 

 

 

● プレンク『眼科書』の翻訳書

 

31.宇田川(うだがわ)玄(げん)真(しん)訳『泰西(たいせい)眼科(がんか)全書(ぜんしょ)

 

 (同じ頁の写真です)
 

今回展示する本書は、宇田川玄真がプレンクのラテン語医書『眼科書』(“ Doctrina de morbis oculorum.1777.”今回展示)の蘭訳版を用いて翻訳した『泰西眼科全書』である。蘭訳書名は、“ Verhandeling over de Oogziekten. Door den Heer Joseph Jacob Plenck. Uit het Latyn vertaeld, en met aenteekeningen vermeerderd. Door Martinus Pruys. Rotterdam, 1787.”全276頁で縦20.5㎝・横14.7㎝の蘭書であり、書名からもわかるようにラテン語版からマルチヌス・プロイスMartinus Pruysがオランダ語訳したものである。プロイスは蘭訳にあたって1783年刊行の第2版を用いた。現在、この蘭書の筆写本が静嘉堂文庫の大槻文庫『宇氏秘笈』の書名で所蔵されている。プロイスの蘭訳本は、これまで寛政6(1794)年の輸入とされてきたが、オランダ・ハーグ国立中央文書館の日本関係文書中の同年入港蘭船の積荷リストには同書名がみえない。

この蘭書の入手経緯に関しては、『泰西眼科全書』の冒頭の「新譯泰西眼病方序記」・「余録」、大槻玄沢「解悶雑記」において玄真や大槻が詳しく述べている。それによると、寛政6年にオランダ商館長ヘンミーMr. Gijsbert Hemmijの江戸参府に随行した外科医のケラーAmbrosius Lodovicus Bernardus Kellerが所持していたプレンクの蘭書を、桂川甫周と大槻玄沢が閲覧し、それが発端で所望するところになったとある。そのことは「西賓対晤」(静嘉堂文庫の大槻文庫所蔵)中の「甲寅来貢西客對話」の同年5月4日の条に「(前略)医書二三冊ヲ携来リ示スヲ見ルニ(中略)眼科ノ書アリ。名ヲOogzieken Door Den Joseph Jacob Plenck. トアリ、一巻ノ小冊ナレトモ療術薬方等載セテ詳ナリト見ユ」とある。玄真は『泰西眼科全書』の冒頭を寛政11(1799)年3月晦日に記載し、その中で大槻玄沢はかつて仙台の大森寿安から眼科書の購入依頼を受けていたことから、ケラー所持の眼科書の購入を強く希望した。しかし、ケラーが示した書籍価格が「金二両」という高価であったためを入手を果たせず、ケラーは長崎の帰途についてしまった。同年秋に、阿蘭陀通詞を介して桂川甫周が所望したところ、ケラーからプレンクの眼科書が届き、それを桂川が大槻に預けるところとなった。大槻はそれを大森寿安に購求させようと図ったが、大森がこれを欲しがらず拒否したため、そのまま大槻のもとで所持していた。その後、大槻は杉田伯玄が来訪した折にその蘭書の借用を迫られたので貸したところ、杉田玄白の門人で小田原藩医の市川隆甫が眼科を専門としている関係でその蘭書を所望したので、大槻が桂川にこの話を取り次ぎ、ここに市川の購入が実現するところとなった。その後市川は、宇田川玄随の塾でこの書の翻訳に取り掛かっていたが果たせず、小田原に帰藩するところとなった。この時、すでに玄随は市川所持の蘭書の謄写を玄真に命じて作成させ、家蔵していた。

玄真は寛政9(1797)年に義父玄随が没したので、遺志を継いで翌寛政10(1798)年冬より訳業に着手し翌年春に訳了して全5巻にまとめた。玄真はこの訳業について自ら「我邦ニテ眼科書新譯ノ権輿ナリ」と記載している。

玄真の翻訳は訳了したものの版本として刊行されなかった。玄真は2冊の書写本を作成して、杉田玄白と大槻玄沢の2人に贈呈した。すなわち、この訳書は玄真自身のものを含めると3部のみ作成された珍蔵書であった。ましてや大槻家秘蔵本は玄沢自ら

余録として序文的な付記を添えていた。中泉行正博士の調査によれば、千葉大学と京都大学に同写本が所蔵されていることを確認したが、いずれも完本でないことが判明したと報告している。

本館が所蔵する『泰西眼科全書』は、玄真が訳して版本にならずに写本として流布したものであり、杉田と大槻の両名のみに秘かに贈呈された書写本からの写本で、5冊から成る完本である。加えて、大槻の余録を伴うものであり、他の所蔵が確認されない現在のところ貴重な史料であり、まさに今回の見どころの一つでもある。この第1巻の表紙裏には、書肆の和泉屋が『泰西眼科全書』5冊を金1歩1朱で「足立様」(蘭方医の足立長雋と考えられる)宛に送付した「覚」が付されていて、その後浜松の内田正と鮫島近二の所蔵を経て、現在、本館の所蔵に帰しているものである。全5巻の写本で、縦25.3㎝・横17.5㎝である。

 

32.杉田(すぎた)立(りゅう)卿(けい)訳『和蘭(おらんだ)眼科(がんか)新書(しんしょ)』・『眼科(がんか)新書(しんしょ)

 

今回展示する本書は、宇田川玄真がプレンクのラテン語医書『眼科書』(“ Doctrina de morbis oculorum. 1777.” 今回展示)の蘭訳版を用いて翻訳した『泰西眼科全書』が未刊であったため、杉田玄白の子である杉田立卿が文化12(1815)年に完訳して最初『和蘭眼科新書』として刊行し、同年『眼科新書』と改めて出版したものである。

『和蘭眼科新書』は、第1巻に杉田立卿の序があり、途中に石川大浪が描いた「眼球畧図」が彩色されて挿入され、そして第5巻の末には大槻玄沢の跋がみえ、巻尾に「天真楼蔵版」と杉田家の塾名の版であることが明記されている。本書は全5巻版本で、縦26.0㎝・横17.3㎝である。

 

『眼科新書』は、第1巻の冒頭に大槻玄沢の跋、続いて杉田立卿の序の順で編集され、全5巻で、本文は『和蘭眼科新書』と同様であるが、図だけが一部異なっている。また、この5巻に、松田就将輯録『眼科新書附録』全1巻が加えられて完本となっている。この附録には、製煉器図説や薬剤製煉法などの内容がみえ、巻首には岩松良碩義則の跋がある。

本書の特性は、「眼球畧図」が挿入されていることで、オランダ語を理解しなくても、その図から西洋の眼科の知識や医術を習得できる点であった。また、本書の刊行をめぐって、同年中に異なる版が出され、序・跋の順が入れ替えられたように、ここに大槻玄沢の関与を物語っているとされる。本書は、附録を加えて全6巻の版本で、縦25.3㎝・横17.5㎝である。

 

    

  

 

 

33. イペイの蘭書

 

 

アドルフォス・イペイ Adolphis(Adolphus)Ypey(1749-1820年)

 

イペイは、1749年6月14日オランダのフラネッケル大学の数学教授であったニコラース・イペイNicolaas Ypeyの子として、同地で生まれた。1762年にフラネッケル大学の哲学部・医学部に入学し、1767年4月9日に哲学博士、1769年に医学博士の称号を取得した。卒業後、同地の開業医となったが、1772年10月30日オーウェンスOwensの後任としてフラネッケル大学の植物学の講師となり、また自らの願い出により1776年1月20日には医学の講師にも任命された。

1787年10月27日に父親の死去で、数学、築城術、内科学及び解剖学の教授に任命された。1793年には同大学の学長に就任し、同年から1795年の期間には5体の公開解剖を実施した。

1795年7月10日、ナポレオンがオランダを侵略したことで、イペイは政治的な理由をもって職務を辞し、1797年にはアムステルダムに転居して開業医として暮らした。1805年、アラルディAllardiの後任としてフラネッケル大学に復職して教授に戻り、病理学、疾病分類学、薬学、内科臨床学の講義を担当した。その後、フラネッケル大学はナポレオンによって閉鎖されたのを機に、イペイはライデン大学に転勤し、1813年1月18日化学の授業を開講し、その後1815年10月16日まで教授として務めた。1820年2月27日、イペイはライデンにおいて70歳で没した。

イペイの学問領域は多岐にわたり、書物を介して広い知識を獲得し、優れた教科書を多く執筆した。イペイの肖像銅版画は、ポートマンL.Portmanによつて描かれた。

イペイの著書としては、“Chemie voor Beginnede Liefhebbers.” Amsterdam.1803.が有名である。これは、ウィリアム・ヘンリーWilliam Henry“Elements of experimental chemistry” Trommsdorffのドイツ語版の重訳とされてきたが、近年の研究成果により、ウィリアム・ヘンリーによる『化学概略』“An Epitome of Chemistry.”1801. を翻訳したことであることが判明した。このイペイの化学書は、わが国では宇田川榕庵訳の『舎密開宗』(1837(天保8)年刊行)の主著となり、化学の基礎的な教科書として扱われた。「舎密」とはセイミと称し、オランダ語のChemieであり、つまり化学の音訳であった。しかし、『舎密開宗』は、イペイの著書のみならず24冊の化学書を参考に著述され、わが国の化学導入に大きな影響を及ぼした。また、イペイ著 “Handleiding tot de Physiologie.”Amsterdam.1809. は、広瀬元恭訳『知生論』の原著とし、イペイ著 “Handboek der Materies Medica.” Amsterdam.1811. の初版本は、藤林普山訳の『和蘭薬性弁』(5冊8巻で未完)の原著であった。

 今回展示するイペイの “Handboek der Materies Medica.” は、1818年にアムステルダムで刊行された第2版であり、これを用いて青地林宗が翻訳したのが『依百乙薬性論』であり、凡例に文政6(1823)年の識語あることから、同年の訳稿と考えられる。本書は国立国会図書館の江戸幕府旧蔵蘭書中にも他館等にも所蔵が確認できない。本館所蔵本はその意味でも貴重書であり、わが国における西洋の内科学・薬物学の導入・普及に多大な影響を及ぼした蘭書であるといえる。

オランダ・ハーグ国立中央文書館所蔵の日本関係文書(貿易書類)によると、イペイの蘭書のうち、『依百乙薬性論』の原書 “Handboek der Materies Medica.” の長崎への舶載は、1821(文政4)年の入港蘭船(ジャワJava号)の積荷リストにみえ、1818(文政元)年以来毎年の阿蘭陀通詞による誂物注文に応えたものである。これを機に、それ以降もイペイの同書の注文・舶載は人気を博して継続された。

もう一つ、イペイの蘭書の中で、宇田川榕庵が『舎密開宗』編述の主著とした、いわゆる「シーケイキュンデ」は、近世後期のわが国にもたらされた蘭書の中でも大量に発注され舶載された一書であり、そのことは日本関係文書(貿易書類)からもうかがえる。1819(文政2)年に阿蘭陀通詞が誂物として1部3巻本のものを注文している記録が初見であるが、舶載の最初は、1825(文政8)年長崎入港のヴァスコ・ダ・ガマVasco da Gama号が、次に示す1部9巻本の蘭書として舶載したことに求められる。

“Systematisch handboek der beschouwende en werkdadige scheikunde, ingericht volgens de leiddraad der chemie voor beginnende liefhebbers door W. Henry.” Amsterdam. 1804-1812. 9 vols.

同書は、1826年と1827年の各年に5セットずつ再注文されているが、長崎に入港する蘭船にはしばらく積み渡られず、再度の舶載は1831(天保2)年入港のデ・ヨンゲ・ヤンDe Jonge Jan号が1部9巻本を舶載した。これ以降、引き続き大部の発注を出し、天保・弘化・嘉永年間まで、ほぼ毎年舶載され、1部9巻本の圧巻の蘭書であったが長い期間にわたり人気の蘭書であったことがうかがえる。

 

 

● イペイ蘭書の翻訳書

 

34.廣瀬元(ひろせげん)恭(きょう)訳『知生論(ちせいろん)

 

 

今回展示する本書は、イペイの『人体生理学要綱』(Adolph Ypey: Elementa Physiologiae Humani Corporis. 1809.”)の原書を、廣瀬元恭が翻訳し、時習館で講義したのを、備前の門人で適塾にも学んだ長湍元蔵(長瀬時衡)が筆記し、雲藩の宍道精新斎が校訂し、時習館蔵版として安政3(1856)年に刊行したものである。当初3巻本を予定していたが最終巻は未刊に終わり、本館本もそれによって2巻本として所蔵されている。本書は縦22.0㎝・横14.5㎝で、「金澤藩」「金澤学校」の蔵書印記がみえる。本書の内容は、近代生理学を大成したハーラーAlbrecht von Hallerによる筋に関する刺激性説と神経に関する感受性説を紹介したもので、殊にハーラーの顕微鏡による毛細血管内の血液の流動の観察が記載されている点に注目できる。

廣瀬元恭は、文政4(1821)年に甲斐国藤田で代々医術を生業にする家系に生まれた。15歳で江戸の坪井誠軒に入門し、安政3(1857)年には大坂の緒方洪庵の適塾に入門してオランダ語を学習した。京都に落ち着いて時習館という家塾を開き、佐野常民や陸奥宗光などのも門人を教えた。廣瀬の塾では医学のみならず、砲術や軍制にも及んでいて、蘭学の西洋軍事科学化の様相に対応した代表的な蘭学者である点も看過できない。著訳書も医書から軍事科学書など多岐にわたり、『知生論』のほか、『理学提要』、『病理正解』、『築城新法』、『砲術新書』などがある。

 

 

 

35.藤林普山(ふじばやしふざん)訳『和蘭(おらんだ)薬性(やくしょう)弁(べん)

 

 

今回展示する本書は、イペイの『薬性論書』(“Handboek der Materies Medica.”

Amsterdam. 1811.の原書を、初編8巻全5冊として文政8(1825)年に鼓岡館蔵版として刊行したものである。外題に「和蘭」の角書があり、正式書名は『薬性弁』であるが、一般的には「和蘭」を冠した書名が通行名となっている。全5冊で、縦26.0㎝・横18.0㎝で漢字片仮名交文である。第1巻には、新宮凉庭参、中川修亭・近藤一進・山内競校、そして文政5(1822)年の新宮凉庭の序、近藤一進の題言がある。この目次には、全22巻が紹介され、奥付には「初篇五冊、二篇・三篇嗣出」とあるが他は未刊に終わった。イペイの原書に薬方名が記載されていながら、薬方内容が記載されていないものはバタビア局方とショメールの辞典に依拠し補記している。

 藤林普山は、天明元(1781)年に山城邦綴喜郡普賢寺村水取に生まれた。寛政8(1796)年に京に出て3年間医術を学び、稲村三伯の『波留麻和解』を購入して帰郷し、独学で10年間オランダ語や西洋文物の学習を行った。文化3(1806)年5月に親友の小森桃塢とともに海上随鷗(稲村三伯から改名)の塾に入門した。『波留麻和解』が7万語・出版30部であったことから、小森と相談し重要用語3万語を選び、師に乞うて『譯鍵』として文化7(1810)年に出版。その冒頭に掲載した「凡例附録」ではオランダ語文法を略説し、これはのちに『蘭学逕』として出版した。文政7(1824)年に門人により100部再販し、さらに安政4(1857)年に越前の大野藩の廣田憲寛が『増補譯鍵』として出版した。その後藤林は翻訳に専念したが、天保元(1830)年には有栖川宮家の医員を務めるようになった。天保7(1836)年1月14日、56歳で没し、黒谷金戒光明寺に埋葬された。

 

 36.青地(あおち)林宗(りんそう)訳『依百(イペ)乙(イ)薬性論(やくせいろん)

 

 今回展示する本書は、イペイの『薬性論書』(“Handboek der Materies Medica.”

Amsterdam. 1818.第2版を原書に、青地林宗が訳出して刊行したものである。藤林普山の『和蘭薬性弁』が8巻全5冊で未完に終わったのに対して、本書は完訳本である。本書の凡例に文政6(1823)年仲春の青地林宗の識語がみえることから、同年に脱稿したものと考えられる。本書は版本にはならず写本として流布し、本館の所蔵本は3冊で、縦23.5㎝・横16.5㎝のものである。

青地林宗は、安永4(1775)年に伊予松山藩の侍医快庵の子として生まれた。蘭学を学んだ経緯は詳しくわからないが、蘭学の師についても馬場佐十郎と杉田玄白の天真楼と2つの説がある。青地は窮理学すなわち物理学をよく研究し、文政8(1825)年に『気海観瀾』を著し、また馬場佐十郎の遺志を継いでロシア人ゴローニンの『遭厄日本紀事』の翻訳も行った。そのほか、文政9(1826)年に『輿地誌略』、同11(1828)年に『医学集成』を著した。またこの頃に、幕府による『厚生新編』の翻訳にも携わったとされる。天保4(1833)年2月22日、青地は江戸の本所で没した。

 

 

 

37. ボイスの蘭書

 

エグベルト・ボイス Egbert Buys(?-1769年)

 

ボイスは、生年月日が不明であり、プロイセン王の宮廷顧問を務め、生涯の大半をアムステルダムで過ごしたと伝わるがそれ以外の経歴は不明であり、1769年2月13日に同地で没したことはわかっている。

 ボイスには次の単行本4冊と2種の辞典の著作がある。

“Den Algemeenen Spectator, zijnde 30 Vertogen over verscheyde onderwerpen, vercierd met een Register der voornaamste zaken.” Amsterdam. 1749.

“Naauwkeurige en volledige beschryving van den laatsten Oorlog in Duitschland, Portugal, Oostindien en Amerika.” 's Hage.

“De Weereld in het klein of de spoedige Reiziger. ”tweede druk 's Hage 1770.

“Historie van het Huis van Brunswijk. ” Amsterdam.

“Volkomen Kunstwoordenboek, bevattende eene genoegzame verklaring van alle woorden, ontleend van de Grieksche, Spaansche, Fransche, Hoogduitsche en Nederduitsche Talen, die men gebruikt om eenige Konst, Wetenschap, Gewoonten, Ziekten, Geneesmiddel, Plant, Bloem, Vrugt, Gereedschap, Werktuig enz. te benoemen. Utr.” 1768. 2 deelen.

“Nieuw en volkomen Woordenboek van Konsten en Wetenschappen.” Amsterdam. 10

deelen. 1769-1778.

 
 

今回展示するボイスの上記⑥の辞典は、『ボイス学芸辞典』として知られ、10巻の大部である。ボイスの本書10巻は、蘭癖大名の朽木昌綱がオランダ商館長ティチングIsaac Titsinghから贈呈されたのが、わが国に将来された初見といえる。オランダ・ハーグ国立中央文書館所蔵の日本関係文書(貿易書類)によると、ボイスの本書10巻はその後、寛政3(1791)年の入港蘭船フーデ・トラウGoede Trouw号が将軍家の注文として舶載している。それ以降も阿蘭陀通詞による誂物注文として求められ、大量に発注され舶載された一書となったことが日本関係文書(貿易書類)からもうかがえる。概ね1巻200頁を超える大著で、縦23.3㎝・横14.0㎝で10巻揃いであり、国立国会図書館をはじめ佐賀県の武雄鍋島家などに所蔵されているが、欠本所蔵のところも少なくない。当時の蘭学者は、さまざまな学問分野においてこの辞典を紐解いており、同辞典掲載図は必要に応じて筆写され、例えば、川本幸民訳の『気海観瀾広義』の挿図にも参考に用いられたことがうかがえる。なお、ボイスの名前については、オランダの科学者で窮理学の大家であるヨハネス・ボイスJohannes Buys(1764-1838)とエグベルト・ボイスとが歴史的に混同されてきたところもある。ヨハネス・ボイスは、著書に“Natuurkundig schoolbook, uitgegeven door de Maatschappij: tot nut van’s Algemeen.” 1828.があり、これがわが国にも舶載され、青地林宗『気海観瀾』、帆足万里『窮理通』、川本幸民『気海観瀾広義』の参考書として使用された。

 

 

38.気海観瀾    青地林宗:訳

 

 

39.気海観瀾広義   川本幸民:著

 

 

 

資料解題の参考文献 (梶 担当分)

 

1 Van der Aa, A.J., “Biographisch woordenboek der Nederlanden”, t.8. 2e partie, Haarlem: J.J. van Brederode.1867.

2 オランダ・ハーグ国立中央文書館所蔵「日本関係文書」

3 大槻如電著・佐藤栄七増訂『日本洋学編年史』

4 日本学士院『明治前日本医学史』

5 日蘭学会編『洋学史事典』

6 石田純郎『オランダにおける蘭学医書の形成』

7 石田純郎『蘭学の背景』

8 石田純郎「プレンク(J.J.E.von Plenck)について」(『日本医史学雑誌』第

45巻第2巻)

9 片桐一男『杉田玄白 蘭学事始』

10 梶 輝行「『泰西眼科全書』の成立をめぐる蘭学者の交流について」(『医薬

科学史研究』第1号)

 

 

 

 

 

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